呆気なく知る
このところ、通奏低音的にずーっと考えていたことの答えがポンと降りてきた。この大脳を通さずに、何処からか不意に湧き出てくる泉みたいな意識を無差別智の認識といって、生まれる前から備わっているこころの土台みたいなもの。ものとはいっても形は見えないが、大人は、現実と(まるで見えるように実感する表層の意識)とここの境目にかなりハッキリしたベールが覆っている、それができはじめるのが生後2歳と1ヶ月くらい、というような岡潔先生の講義録の解説をしていて、それをそのまま追体験したような。もちろん、そういうのは度々あるが、けさのは時期刻限が到来して自動的にもたらされたと受けとった。
聖書を深く知らないが、マルコの福音に出てくる「求めよ、さらば与えられん」「信じる者は救われる」は、他の宗教でも成功法則でも語られている真理で、長くわたしの座右の銘でもあった。最近では、信じているレベルでは、まだ、相対の感覚だろう、それを超えるには…それは「因果」の影響を受けなくなることでもあるし、どう説明するかね、と思案していたが、やはり、これは、経験して実感するより他にはないと思う。言葉にすれば呆気なさすぎて、それをまた解説しようと努力するとけっきょく枝葉末節にしか興味がいかなくなる。それが、この200年くらいの世界の有様を如実に示している。
この如実には、そもそもは仏教の言葉だろうが、真如来現=背景の暗闇から忽然と現れたのが如来の光明ということなので、如(にょ)が背景で、ポンと湧き出てきた泉が実、自我の良い悪いの判断など加える余地のない明らかさでわかるという、まさしく、無差別智のはたらきそのものだから、呆気ない。だから、ほんとうは呆気なく知るではなくて「智る」だと思う。
呆気なくを他の言葉にすれば、一瞬のうちにもアリかと思うが、これではポンと非恣意的な感じが足りないしね。あー、そういうことォ、びっくりした。えぇ、そんなことだったんかぁ、って。
秋は、そういうことを静かに感じてみるのに適した肌感覚の季節だから、逍遥と読書、につながってくるのだろうけど、急に涼しくなると、にわかに淋しい感じもする。寂寥感と漢字で書けばもっと詳しい内容が含まれると思うが、せきりょうかんって何と聞かれるだろうから、通じないことをいってもなんだしね、となる。つまり、今のわたしたち日本人は、昔のひとがごく自然に感じていた感覚の(少なく見積もって)30%くらいは、もう、認識することができなくなってしまっている。万葉集を読んでも、何となくふーん、と思うものの、知識的、表面的にしか受けとめられないだろう。ほんとうに、わたし自身もそんな情けない人生を歩いてきたと実感するが、ここへきて、遅ればせながらでもわかったのが幸い。
いつも、何で、そんなしちめんどくさい、面白みのないことを書き続けるのか、と聞かれそうだが、究極の幸せは、その道の先にしかないことを伝えたい。古代の日本民族がふつーにわかっていた、秘密でも何でもない事実を思い出そう…