役者は変わっても
ようやく、富士山に初冠雪と(写真は岩木山)…すっかり季節がズレ込んでしまって、紅葉シーズンがやっとはじまるのか中途半端で強制終了してしまうのか、ハラハラ過ごす秋になった。暦の上の晩秋なんてほど遠い。
最近、巷にあふれる誰かの絶望または希望的観測の主張を見聞きするにつけ、ははん、表面から少しだけググッたところで、それがすべて(真実)と信じているのだなぁと複雑な感じがする。いや、役者は変わっても裏はつながっているので、さらには一見主役のように振る舞っている本人たちは真実のほんの一部しか知らされないのだから、そこで、ケンカごしに主張を対立させたところで、パフォーマンスで、黒幕の思う壺、何も変わらないどころか、もっと深刻なダメージが深く潜行してしまう。しょせん、資本主義という名の共産主義だから、誰か何処かのヒーローがどうにかしてくれるなんて有り得ない、おめでたいね。もちろん、ひと様がどんな現実に生きようとそのひとの勝手なので、他人がどうこういう必要はないし、わたしが見ている世界も五十歩百歩に過ぎないだろうが。ただし、誰かに期待するひとは、最後にがっかりすることが多いから、ソレがないだけはマシかも知れない。
わたしが、表に見えていない世界の裏をできるだけ知らなければ太刀打ちできないと痛感したのは、リーマンの前のサブプライムの頃。癌で闘病中の友人に代わって、彼女が生き残れた時に生活できるように、自宅のベットの上で、パジャマのままで収入を得られる道を模索して少額の投資をテストしていた時期のこと。それが、今では、うかうかしていると、いのちを脅かされるところまでエスカレートしている。情報リテラシーというが、同じものを見聞きしても、アレ、おかしいなぁと感じる最後はセンスの問題だから、何かおかしい、ちがう気がするという他に説明できない。ホントにね、TVや新聞を見ているなんて、わざわざ死にに赴くようなことになってしまっている。
この世の大宇宙のはじまりは混沌としたエネルギーの渦だから、いいとか悪いとか陰陽とかハッキリ二分してなんてない。一瞬、そんな感じに見えるだけであって時事刻々と様変わりする。敵の中にもこちらのスパイがいてそれはお互い様だし、状況もコロコロ、猫の目のように変わるのだから、大将自身が自分の置かれたほんとうの状況を知らない。じゃ、どうすりゃいいのよってことになるが、どうしようもない現実に直面した時に右往左往しないためには、自分がたった今、何をどう考えて生きているのかを多少なりとも把握しておくことだ。そうすればイザという時、自分のした決断には諦めがつくし、もう大人になって久しいのだから、自分より若者の方が優先されるべき、と納得できるだろう。あのタイタニック号が沈没する際、世界の大富豪が年の離れた妻と救命ボートに乗り込もうとした瞬間、向こうから駆けてきた三等客室の若い女性に席を譲りそのまま亡くなったエピソードがある。大切なものは目には見えない、星の王子様もそういっているが、ほんとうに大事なものはそんなに数は多くない。それが何かを見定めておくべきだろう。
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