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自分の常識非常識

きのう、standFMで番組を1本配信したら、さっそく、いつも聴いてくださっているリスナーさんから「ケケケの毛虫は、わたしもはじめて聴きましたよ!」とメッセージが…実は、ソレは収録の際にわたしの子どもの頃の局地的な現象だったのかも、とすでに判明していて、えぇー、とやりとりが繰り広げられていたのだが、やっぱりか、と絶句した。どういう文脈かというと、主語(自我)から選択するものはあくまで過去の経験や希望欲望にもとづいていて、全(宇宙)方向的に最適なことは少ないから、天の采配に従う謙虚さを意識した方がいい(と子どもごころにうっすら認識があったのかも知れない)というもの。そこで、子どもの頃の自分がどんな毎日を過ごしていたかな、と思い出してみた。

わたしは、地方の政令指定都市で、極貧でも裕福でもないフツーの家庭で育ったが、今にして思えばそこそこいい感じに田舎だったから海山川空の自然に恵まれていた。当時は、それが当たり前だったので深く考えてみたこともなかったが、子どもながらに、周りの環境に育まれているような実感があったのかも知れない。その、ケケケの毛虫には前節があって〝どちらにしようかな、天の神様のいう通り〟のフレーズではじまる。55年前の自分が無邪気にそう唱えていたことを思い出すと、そこから「社会化」がはじまって、自分が選ぶ、思う通りにしたい、そうなるのがベター、もっとそうしたい、そうするには…と自我的な人生に奮闘努力してみたものの、けっきょくは問屋が卸さないってとこを痛感して、グルっと一周して、無駄なことはやめようにたどりついたのが還暦前のわたしって自分史の検証になるのでした。幼い頃には、常識が存在しないが、3歳以降は自我(主には生存的な欲望)が芽生えて固定されてくるから動物的物質的な自意識に邁進する。しかし、100%野放しは許されないから、次第に周りに感化制御されて社会の常識が自分の常識として蓄積される。そういえば、ここ数十年は、ケケケの毛虫なんて唱えたこともなかったね。
目から鱗というが、人生の半分過ぎでポロリととれてよかった。グルっと一周したのだら、ここ数十年の経験はある意味無駄だったのかと思わなくもないが、知らない、経験しないことは腑に落ちない面もあるし、ソレに気づくのが人生なのかも知れない。人生、なるべく順風満帆なのがいいとは思うが、苦労しないならアレ?とかおや?とか考える場面はあまりないだろう。かといって、辛い目には遭いたくないから患難辛苦を与え給えとまでは思えない。

そういう訳で、自分の常識は疑わしく、そんなものに即していたってしあわせにはなれないだろう、というケケケのスタイルに立ち返ったら、いちいち、あーしたいこーしたいと指定する方が返って不利、って事実を再確認する。
体調不良で半月棒に振ったが、それにも意味があったんだろうね( ̄ー ̄)v







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