意図しない認識
滞在先でおだやかな海の輝きを眺めながら、この数日、立て続けに起きた惨事が気にかかる。いつ何処で何に遭遇するかはわからない。自分じゃなかったからいいなんて、ふつうの日本人なら誰も思わない。しかし、よその国ではいい気味とアナウンスして更迭された女もいる。意味不明と思うが、そんな感覚のヒトもいるらしい。ひと、人、ヒト、文字によって意味が変わる。わたしの感覚では、ヒトは単なる物質や動物に近い。大きな災害のたびに、日本人の特殊性?や勤勉性が海外でニュースになると聞く。もし、国柄というようなものがあるとしたら、たかだか200年余りの国と皇統2,600年の国では中身がちがうハズだ。優劣という意味ではない。かくあれかし、とDNA🧬的に受け継がれてきた認識の重さだ。一大事があると個を消してひとつになる。そんなことをずーっと続けてきた。近代以前では、戦国時代を除いては、外来のものとも争わずに内包して暮らしてきた。明治以降、富国強兵だのといって西洋化を進めてきたが、はたして正しかったのかはなはだ疑問に思う。
自然の摂理というが、この摂理は誰か権力者のような存在が意図した律に従うののとはちがう、目に見えない宇宙の法則性に、誰もが(全ての素粒子の波動)が相まって循環と連携のエネルギーを形造る、永遠に。その元の根源の意識エネルギーを神様とお呼びするとしても、それは権力者のソレとはちがう、全てを内包する元ひとつの分つことのない意識のことなのだから。
四季折々の時として厳しい自然の中で、ずーっと生きてきたわたしたちの先人たちは、辛いことも粛々とやり過ごして、天の采配を疑うことなく共存してきた。大陸的な殺戮と粛清の歴史とは相容れない。
大脳前頭葉を通さない、無差別智と呼ばれる、にわかには意識されない認識がある。光のきらめきや揺らぎを見ただけで、今何時頃とわかる感覚、同じ角度に傾いた陽の佇まいに、今は春、今は秋と一瞬でわかる。理解するのではない。理屈抜きにわかるのだ。理屈抜きにわかるから、他人の辛さも何も聞かなくてもわかる。条件に依らない。岡潔先生は、ひとがうれしいと自分もうれしい、嬉々としてふるまう本人より周りで見ている方がそれを如実にわかっていたりする、これが、わたしたち日本人のもともとの感覚、無差別智の認識と教えてくださっている。個がないから共通の認識にもなる。何の疑いもない。欲望や権利や損得しか考えない民族やそんな背景のもとに興された国に暮らしていれば自ずとそうなってしまうだろう。そんなものを見習って百数十年が経ち、日本人の無差別智的な感覚が劣化してしまった。しかし、なくなってしまったわけではないから、今こそ復古したい。
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