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歩道橋からの日の出

ダイヤモンドでも海からでもないが、毎年元旦は、ここから眺めるのがそら流…小さな山から登るので日の出時刻から8分くらいかかるが、その間にもすぐ傍の消防署から救急出動のアナウンスが響いてきた。ほんとに、交通機関、救急、消防警察etc.公的な職場の正月🎍にも休みなくはたらくひとたちのお陰でこちらは安穏としていられるナと実感する。日の出が拝めたといっては感謝し、暖かい正月だといってはありがたがる、もともとの日本的な感覚はそうだったろう。
ろう、というのは、わたしが昭和な世代で、今のひとたちはいくらかちがうのかなとも思わなくはないから。どっちが良い悪いではないが、日本語がふつうに通じなくなり、意味するところがちがってしまっているという。昭和以前のひとは6時10分前→17:50頃、今のひとは、18:08~09と考えるというのだ。えぇ!と絶句した。まちがいとはいわないが、どーなの?と、お口あんぐりになる。

明治以前の江戸の世は、識字率、人口ともに世界一、260年は戦争もなく、武士道精神や職人技など脈々と受け継がれ発展してきた時代があった。しかも、表面的には鎖国していた。つまり、ある程度、オリジナリティが保たれていたわけだ。今は、これの正反対で、西洋式大脳前頭前野的思考一辺倒の察しない、100回嘘をつけば本当になる式の浅はかで機械的(ロボットに置き換え可能な)なものが効率的、合理的で正しいと思い込んでいる。浅はかとは深みがない、単純明快なことで、明快といえば聞こえはいいが、世の中は、白黒で割り切れることだけではないし、多数決が正しいわけでもない。
江戸から明治にかけての文豪、夏目漱石は、情に棹させば流される、とかくにこの世は住みにくいといったが、彼は英国留学経験があるから、西洋人的な単純明快な思考回路にいちいち驚愕したにちがいない。だって、義理と人情の板挟みという場合の情は、白黒で割り切ることができない微妙なニュアンスを含むのだから。単純だから明快なので、薄っぺらぺらということだ。今では、日本人でも白黒、好き嫌い、ハッキリした濃い味付けしかわからないインスタントな時代になってしまっている。つまり、ロボットに近づいてしまっている。ロボットは、指示されたことは忠実に再現できるが、人間にしか判断できない微妙な、ミリ単位の職人技などは無理だから、単純な(人間には忍耐が必要に感じる)作業しかできない。奴らの考える人間がそんなレベルということの証拠でもある。
職人技とまでいかなくても、わたしたちオリジナルの日本人は、大脳前頭前野を通さないで、一瞬にしてパッとわかる無差別智を思考の基本として暮らしてきた。そう、明治以前のわたしたちは…
良いか悪いかは別として、今のひとたちは、オリジナリティから大幅に逸脱していると自覚する必要がある。たぶん、考えてみたこともないだろう。

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