見出し画像

原因と結果を超える②

仏教の唯識では、意識を階層的に分析していて、阿頼耶識の上に九識があって、そのはたらきである「知」がいちばん重要ってことになっている。五感というのは、七織以下のからだを伴って知覚されるエネルギーだから、その上に見えない周波数の階層があって、上にいくほど微細になり、感知器の脳(脳波)が大人しくθシータくらいに下がらないと同調できないから座禅をしてみたりするわけだ。そうしたかったらしてもいいが、わざわざご苦労さん、と思う。
前回、2歳1ヶ月未満の幼児には自我がないといった。その後、家族以外の世間にも接して、靴の履き方箸の持ち方から、様々に記憶しなければいけない時期が続くが、この6歳くらいまでの期間は、θ波が優勢らしく、座禅しなくてもその状態に近い。わたしたちが、昼間働いたりものを考えたり恋愛したり、大脳前頭葉をフル稼働して欲望にまっしぐらな時の脳波はβベータ波で、ゆったりリラックスしてクラシックなど聴いている時がαアルファ波、つまりは、これがその瞬間の自我の状態といってもいい。活発にはたらいている=自我的な思考ということ。今では、お釈迦さまの時代とちがって、一応、科学的に分析してみることもできる世の中だからイメージしやすい。ってことは、要するに、意識の階層を上がるには自我のはたらき、わたしという自我意識を鎮める、凌駕することなしには×ということになる。

さて、そこで、猫が犬に追いかけられて道に飛び出した、だ。そう一瞬で判断したのは、たまたまそこを通りかかったわたしの意識で、それが自我的思考そのものだから、あくまで自分固有の判断で、それをやめたら、猫はネコ、犬はいぬ、わたしはわたしになる。そう、自我がなければ、因果は成り立たない。
さらに、宇宙のすべては、たったひとつの意識のエネルギーに端を発したとすると、素粒子は分つこと能わずで、今もいつでも永遠に相互に関連しつつ姿を変えているから、わたしが、ここで、自我的思考を持ち出してきて、あーしたいこれが欲しいとわざわざβベータ的思考をしなければ、宇宙の全存在は、サッカーのフィールドに散らばったプレイヤーのように自動的にフォーメーションを最適に組み替えてくれる。かつて、おぎゃーと生まれて、自分ひとりでは何ひとつできない時期には、こうして、3Dの現実世界ででも全託全自動式で生きながらえていたのを思い出してごらん。だから、願望は実現するなどと、逆の方向へ感化されてはいけない。そんなのは、浅はかな西洋人の考えに過ぎないのだから。

意識の階層は14あり、13以上は不可知と分析してくださったのは、世界的数学者の岡潔先生。では、九識以降の意識の階層がどうなっているのか。わたしたち日本民族的なる生きものは、実は、無自覚にもそれを知っていたのだ。理解しているのとわかるのは別の認識だから、このちがいを知らなければいけない。仏教でも「9」までしか説いていないってことは、東洋人でもダメな証拠。それが、自然の摂理に八百万神の見えないおはたらきを如実に感じて、度を越さず我はほどほどに、他と和してと自律していたわたしたち(ほぼ過去形)…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?