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知らぬ間に変わる世の中
白川郷を25年ぶりに再訪。今や静かな村ではなくて、世界のひとがひしめくビューポイントに。自分もライトアップ目当てにきた癖にお前らはくんな、と思う。わたしは再鎖国派で、グローバルという言葉に嫌悪感がある。世界中同じ価値観にするのがいい、平等などと考えているのかバカなのか。それが、正解でスタンダードと決めたのは誰なのか、何の権利があってそうするのか。考えれば「?」だらけだが、実は、考えても考えなくてもすでにそれに加担している。
7年前くらいか、スマホ決済なるものが登場した際、わたしは怪訝に感じて近寄らなかった。しかし、地方都市のMyスーパーのレジのおばちゃんから、あら、まだ(アプリ)入れてないの?今、10%還元なのにサッサとしなさいよォ、といわれた時に白旗をあげた。こんな店でもその波が押し寄せているのかと驚いた。ポイントにつられたのもある。セコイさが露呈するね。それからズンズン貨幣を使わない方向に加速度で変化して、何でもスマホになった。途中では良い悪いの論争もあったろうが、一気呵成の流れは止まらない。猫も杓子もサービスを提供する側がスマホを使わせようと仕向け、アナログより効率的、人件費も減らせるっ!と賛同して、世界はこうなります宣言の誰かの後を押す。わたしたち消費者も、ハイハイそうですかぁ、うっかりポイントにつられて魂を売り渡してしまい、最初に感じていた違和感、拒否感は薄れてすっかり飼い慣らされた羊になる(T . T)
まったく知らなかったわけではないが、そんなこととは思わなかった、と罪のないニュアンスを醸し出そうとするが、拒否しなかったのは自分だ。その選択を自己責任という。何故そうなるかといえば、選挙しかり消費税然りでわたしひとりが声をあげても微塵も意味はなさず対抗もできないし、ひょっとすると、意見の異なる周りから揶揄されたり文句をいわれたりしかねないと恐れるから。その根底には、何度かチャレンジしてみたが、結局は何にも変わらなかった過去の悲しい記憶がある。何ごとも続ける&現実打破にはエネルギーが要る。
いつも口を酸っぱくしていうが、自分が意識し、目を通して脳で認識した(思い込んだ、錯視的に勝手に修正した)世界を現実と信じて疑わないが、隣の椅子に腰かけた友人が、目の前の出来事をまったくちがうとらえ方をしているのを見て、えぇっ!と驚く場面がある。価値観や嗜好はちがうし、まぁ、そういうものとしても、問題は、まるで狼少年のようにくり返しくり返し誰かに操作された情報を浴びせられて、結果として無意識のうちに集団行動をしてしまうこと。つまり、敵の思う壺という…コレが増えているように感じる。それは、わたし個人の訴えだが、事実、一定の方向に流れるように仕向けられている。Suicaで電車に乗りDポイントで電話代を払いPayPayで買いものしてもいちいち疑問に感じないが、誰がどこで何をしたのか24時間365日他人が(履歴を)把握している世界は怖い。しかも、紙文化だった日本も記録をデジタルに変えた。一瞬にして証拠を消去できる。コレでいいのか?
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