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水からはじまる

なんだか、話が連休浮かれ話になっちゃってるけど、実は、10日近く前の出張から続いている。上京直前に今年は東北の桜が早いと知り、急に、後に日程をくっつける作戦に出た。おひとり様だからできることだが、こういうのたまにある。流れに従ってといえば聞こえはいいが、一歩まちがえばいきあたりばったりとかその日暮らしになりかねない。じゃ、お前のいう流れって何だよといわれそうなのでチラッと書くと…日本人たるわたしたちが、誰か特定の人に対してではなく世間話的に「きょうは、◯◯の開催日ですから晴れてよかったですね」と口々にいったりする時、そこには明確な主語がない。主語はないかに見せかけて実は森羅万象すべてが含まれている。日本語には主語を明示しない場合が多いから曖昧などといってる単細胞の西洋人には、逆に三人称Weには目に見えない自然など含まれていないだろうから、梅にメジロ、桜にうぐいすなんてコンビが出てくることもなかろうし、やつらは、自然とヒトとは、相対峙する共生といいつつ征服するもの、だから、何故山に登るのかと問われて、そこに山があるからなんて答えてしまう。これに対して、大和ごころは、朝日に匂う山桜花と答える、それが、そこはかとない共通認識だというのだから、どちらが趣深いかわかるだろう?
そう、それで、流れるという時、①無理な負荷や抵抗がない ②誰も不利益を被らない(自然界も含む)  ③むしろ、お互いに共有できる概念が生まれたりして、ちょっとしたハッピーな現象が起こったりするって感じにもなる。誰かが、引き寄せなんていって意図したものではなくて、自然発生的にはじまる。そして、最終的に、あの時のアレはとても有意義でしたねぇとなるのだ。まちがっても、ちからまかせにとかイヤイヤなんてことにはならないし、誰かに我慢を強いることもない。今回、残念なことに(T . T)角館の桜は早々散ってしまったので、それでは、角館には寄らないで途中の湿原に水芭蕉とカタクリの花を見に行くのもまたいいではありませんかって流れになる。
資本主義の世の中では、喩えば、りんごが3つあれば、わたしが2つゲットしたら勝ちみたいにいう。すべてがそんな調子で、どうでもいいようなことをコンプリートしたといって喜んだり騒いだりして、幼稚なの?と思うが、消費させてさせて作戦にまんまと乗っかっていることに気づかない。日本人のもともとの感覚では、りんごを8等分したら24人が味わえる、となる。

さて、それで、写真は、柿田川湧水の水源を写したもの。今回の旅は、ここからほど近いところでラジオの番組を4本収録するところからスタートした。柿田川公園、近いですよというので散策。そして、はからずも八甲田名水、乳頭温泉郷名水とリレーされて、きょう無事にフィナーレを迎える。本拠地に戻ったら、そのまま番組生放送で、たぶん、コレをしゃべるだろうが、すでに選曲してあった曲のタイトルが「水」なのもふしぎな巡り合わせで興味深い。流れに棹させば生きにくい、と江戸時代終わりの夏目漱石もそういっている。自然に、流れ流れてサラサラと生きたいものだ。

新しくはじまったシリーズがこちら
standFM sorairoチャンネル「声の玉手箱」
https://stand.fm/episodes/661e7951efcedc7133be16ae


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