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短い夏に長い夏

きょうもリハビリ的に…今年は蝉がやかましく鳴いていない気がする、と考えた端から、いや、あんたが外に出てないだけやろ?とノリツッコミをしながら暮らしている。自分の認識は正しくない場面が「多」という原則が身に染みているので、ほんとや!といつも思う。この歳になって、自分の姿をだいぶ冷静にチェックできるようになったのは、ひとえにこれまでのまちがいやうっかりを数えれば「枚挙にいとまがない」事実を知るからだ。昔も今と変わらず自信満々だったわけでもないし、己を直視できるほどの達観もしていなかったし、二十歳すぎの頃はちょっとのことでいちいち寝込んで(ダメージを受けて)いた記憶があるが、見たくないなんていって無視したところで隠しようがないくらいの頻度でソレらが露呈しはじめた事実に、いちいち自分を否定していられない=いのちがいくらあっても足りなくなる、と気づいた。そう、この事実は、時にひとを傷つける。自分の理想と乖離していればいるほど、見たくない結果や受け入れるにはうんざりする事実に呆然として、深いため息をついてしまう。その、あまり歓迎されない反復練習をくり返すうちに、それでも気をとりなおして生きていれば、良いこともあるしなんとかなると思い至る。笑いに変える術も習得したりして…まぁ、そういうのが人生ってことなんだよ、とね。若い頃は、そういうハスにかまえた姿勢がいいかげんに思えたりもするが、正面切って突破するばかりが能でないことを途中で発見するのも人生のなりゆき。自分のダメさ加減を理解すれば、ひとだってそんな場面があって然りと許せるパターンにもなる。

自分に厳しいひとは他人にも厳しいというが、ほんとうだろうか?
この場合の厳しいの素は、おそらく感情だろう? つまり、冷静に如実に事実を見ているわけではない。自分はもっとできる奴なんだ、本来はといいたいだけ。反対に、自分に甘いひとは他人にも甘いのかといえば、そんなことは断固としてない。むしろ、自分に甘い(正しく測定できない)なら他人にはよけい厳しいんじゃないのか? おまけに、自分に習慣性のない行動パターンは(脳の構造上)気に入らないのがふつうなので、ひとからそう指摘されれば、怒りが爆発したりもする。導火線に小さな怒りの火がついたところで止まらないわけだから、火がついたことにはまるで気がつかない。だから、自分を棚に上げてひとには言いっ放し、非があっても謝らないみたいな潔く良くないループになる。ひとの目なんて気にしなくてもいいが、自分の感情には留意する必要がある。

体調不良で、半月も棒に振ってしまったものよと情けなくなるが、ソレがお前の実力だよと自覚する。お盆だからせめて、なんちゃっておはぎをつくって、慌ててお供えする。 青森のひとは、短い夏の終わりのねぶた(弘前はネプタ)が済むと、いよいよ、冬が来ると覚悟するらしい。ここでは果てしない長い夏がまだ続くというのに…子どもの頃から日本列島は小さくて縦に長いと教わったが、実は、小さくない。海里まで入れると世界で6番目くらいに広い。知らないで、思い込んで生きていて、自分の感覚は怪しい。


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