見えない場のフォーメーション
エチゼンクラゲが大量発生して、11月からの蟹漁への影響が心配されているらしい。海水温やプランクトンやいろいろな、もとは別々の条件が重なって、わたしたちには、どうしてそうなるのか理解できない現象が時々起きる。都合が良ければ奇跡的な◯◯といい、気に入らなかったらアクシデントという。岡潔先生の名言に「慣れないことは気に食わない」とある。馴染みがない、自分の意見とちがうものは受け入れられないから拒絶する、深く考えたり理解してみようとは思わない、瞬時に、反作用的にSNSで文句をいう、しかも匿名で…こんな直情的なひとだらけになって、日本民族的な思考は絶滅危惧種になってしまったナとため息をついてしまうが、まだ、なんとなくわかるうちに復活させたい、と願って書いてみる。
わたしたちは、自分の好みがあって、それぞれが十人十色の感覚を行使して良いと教わってそれ(個)をどんどん強化してしまったが、宇宙のすべてのものは素粒子のエネルギーなので、ほんとうは1つの固定的な自分なんてカタチは存在しないし、常に周辺の場のエネルギーと影響し合っている、永遠に連動しているから、仮にまわりに何もなければ、何も変化は起きないし、存在している感覚もないだろう。つまり、排他的(自分勝手過ぎる)なふるまいは、結果的には自分を滅ぼすアクシデントを招く。こちらが排除(自然淘汰)されるわけだ。だから、好みを主張するのは場の許容範囲内なら良いが、限界ってものはある。最近の海外のニュースなどを聞くと、そろそろ、いいかげんにしないと、と思えてくる。
松尾芭蕉の俳句に「秋風は ものいわぬ子にも 涙にて」とある。わたしはコレすらも岡先生の講義録の中で知った無知を自覚しているが、昔の日本人は、主語のない自然の摂理と一体化して暮らしていたから、言葉もわからない、およそ哲学的なことなど触れたことがない幼子でもわかる、目の前にさす光を目で見て空気を肌で感じて一瞬にしてわかるという。このわかり方は大脳前頭葉は通さないから理解とはちがう。西洋人も東洋人もこのわかり方はしない。概念もないからできない。仏教では、このはたらき=無差別智について解説しているのにインドでも中国でも身に顕れてきていない。使わないものは退化してなくなる。もっとも、未生に備わったものは、なくなってしまったわけではないし、西洋人にもあるが、先祖代々考えてみたこともないのだから仕方がない。そういう、劣悪な考え方をベースにした西洋式の学問を見習い教育制度を取り入れたのは、よもや、そんな歪な考え方をしている奴がいたとは想像もだにしていなかった先輩たちうっかりさんが招いた不幸になるのだろうが、ひとは往々にして自分を基準にしてしまうからそうなる、悲しい残念ななりゆきだったのだ(T . T)
わたしたちが、急いで、本来の良いところ=オリジナリティを取り戻す。我欲に満ちた大脳前頭葉を黙らせる、ナチュラルな方向へ向かう時、運命の輪が逆回転しはじめるかも知れない。場のすべての存在のうち、あなたとわたしとそのともだちと、内在する個が1つずつマトモに戻るのがその条件といえる。