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見えないけれど、見えるもの。

突然だけど、私は、見えないものの存在やチカラを信じている。
特別なチカラを持っているわけではないけれど、見えない世界を感じることも多い。
そして、そういった世界にとても助けられている。
ひとはとっても霊的な存在であると思っている。
(こういった話は、興味のない方は興味がないと思うので、興味がなければスルーしてください。)

今、現実で見えていることは本当にごくわずかなことで、氷山の一角なんだろうと思っている。その陰に、裏に、奥に、奥底に、いろんなものが混ざり込んで見えているのがリアルの世界だと思っている。

私は、私自身が関わる生や死にまつわることに関して、勘がはたらくことが多い。でもこれ、普通に看護師や保健師していたら、仕事での会話上普通に行われていることでもある。

生に関して言えば、一人目の子どもを妊娠した時、すごくきれいな海で何頭ものイルカが泳ぐ夢を見た。これはきっと妊娠したんだろうなと思ったら、妊娠していて、その後赤ちゃんが生まれた。

一度、流産をしたことがあるんだけれど、その時は最初はなんとなく感じていた生命の力を途中から感じなくなって、この命は消えてしまったかもしれないと感じた瞬間があった。生きている感じがしなかった。病院へ行ったら、心拍が動いていないのがエコーをみてわかった。先生に言われる前に、今回はダメだったと理解した。なんとなくわかっていたから、私は普通にそれを受け入れた。冷たい人間だと思うけど、悲しいとかいう気持ちがあまり芽生えなかった。そういうことだった、そういうものだったと冷静に受け止めた。
この話は、学生時代からの看護師の友人と話していた時に彼女も同じような話をしていて、二人で冷静に「生」について語り合った覚えがある。

次に妊娠した時、当時現実が少し大変な状況ではあった。しかし、そんな中でも、ものすごく生きている感じを感じた。どんな状況でも生き抜いてくれそうな力をお腹の中から感じていた。そして、元気に生まれてくれた。

自分でうまくつなぎ合わせているだけかもしれないけれど、こういった話は自分の中では数知れずある。

死に関して言えば、中1の時に同居していた祖父が亡くなった時のことを思い出す。
もう今夜が山場という夜、両親は病院へ行った。私や弟たちは、近くの友人の家で泊まらせてもらうことになった。朝4時くらいだったと思うけれど、私はぱっと目が覚めて、その瞬間に「おじいちゃん、亡くなったな」と感じて涙が出た。後で聞いた話によるとちょうどその頃、祖父は亡くなった。

病院でも「この人はきっとこの夜勤中に亡くなりそうだよね」とか「今日は持ちこたえそうだよね」とかそういった会話は普通にしていて、それが日常だった。

今の仕事においてもその力は結構ふんだんに発揮されていて、最近見ないんだけど、という地域や近隣、各関係者からの連絡によって、「もしかしたら、亡くなってるかも」とか「多分生きてる」って直観的に感じて行動している。毎回合っているわけではもちろんないけれど、そういったことにすごく勘がはたらく。

こういう生きる死ぬに関する話ではなくても、毎日は、見えないけれど、見えない奇跡の連続や積み重ねによって見える世界がつくりあげられているのだと思う。

気づかいや思いやりなどの温かい気持ちは見えないけれど、感じることができる。気持ちは決して数字では測れないものではあるけれど、いつも存在していて、私たちの心を動かしたり、励ましたりしてくれる。
時には、逆に怒りを誘ったり落胆したりすることもある。

人によって見えている世界は様々で、世界観は人それぞれ。
見えている世界だけではなくて、見えていないけれど信じているもの、大切にしている気持ちなどそういったものは多かれ少なかれ誰しもがもっているものであると思う。

見えないけれど、見えるもの。
そして、この現実は奇跡の連続、奇跡が積み重なってるからこそ存在しているということをいつも忘れずにいたいなあと思っている。
刹那的に過ぎ去る毎日を心の底から味わい尽くしたい。
生きていることを喜びたい。
そして、今ここにいられることに感謝したい。



今日も読んでくださり、ありがとうございました。

そら

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