甘い香り×刺青の男
バイトが終わり、店の外に出ると外は真っ暗になっていた。いつもなら日がある内に終わるんだけど、今日は人手が足りなくて遅くまで残ることになってしまったのだ。……その分バイト代が増えるからいいんだけど、この真っ暗な中を歩いていくのは精神的にキツイものがある。
「やだなぁ、暗いなぁ……」
カバンを抱えてそろそろと歩く。ふと顔をあげると、赤ちょうちんが並ぶ路地裏が見えた。煌々と輝く提灯が闇を退け、行き交う人達はどこか楽しげだ。
「(飲み屋街……だったかな。ここを抜ければ近道にはなるんだけど、ちょっと近寄りがたくて通ったことなかったんだよね……)」
何となく雰囲気が大人っぽくて近寄るのが怖かった。私もお酒を飲める歳になったけど立ち飲み屋で飲んだことはないし、そもそも居酒屋に行ったこともないし……。
「(でも、今はそんなこと言ってられないよね。ササッと走り抜ければ大丈夫だよね)」
カバンを持ち直し、意を決して飲み屋街に足を踏み入れる。辺りの提灯が照らすオレンジ色の光が闇への恐怖を振り払ってくれる。明るいってのはそれだけで安心できる。私は初めに感じていた恐ろしさや不安が無くなっていた。
「なぁなぁ、お嬢ちゃん」
……だからだろうか。後ろから声をかけられた私は警戒することなく振り返ってしまった。
「はい……?」
振り返ったそこにいたのは、スーツを着た赤ら顔のおじさんだった。目がトロンとしていて正気じゃなさそう。ここまで酒気が漂っている。……どこからどうみても酔っ払いだった。
「(この人、怖い……関わらないように早く立ち去ろう)」
「おい、なに無視してんだよ!」
その場から逃げようとした私の手を大きな手が掴む。掴まれた場所からゾワリと不愉快さが全身を駆け巡って思わず鳥肌が立った。気持ち悪さと恐怖で足が止まる。
「おねーちゃん可愛いねェ! ちょーっとおじさんと一緒に飲もうよ! おじさんがおごってあげるから!」
「…………ッ」
怖い。こわい。動けない。男の人がこんなに怖いと思うのは初めてだ。顔を合わせることも怖くて俯いて必死に耐えた。この恐怖が立ち去るのを、この災害が去るのをひたすら神に祈った。
「ほら、なんとかいえよ! 無視してんじゃねーよ! 可愛いからってお高く留まりやがって――」
「――こーら、何やってんの?」
私の祈りが通じたのか、ふわりと漂う甘い香りと共に私の腕を掴んでいた手が離れた。恐る恐る顔をあげると、へらへらした笑みを顔に貼り付けた変わった柄シャツを着たおじさんが酔っ払いの手をひねり上げていた。
「なっ、なんだ、てめぇ!」
酔っ払いはおじさんを見て怒鳴り声を上げる。ターゲットを私からこのおじさんに変更したようだ。……どうしよう、私のせいで迷惑をかけてる。でも私に何が出来るの……?
「邪魔すんじゃ――……ヒッ!?」
「なぁ、もう良い時間だ。今日はお開きにしない?」
「くっ……!」
「……?」
おじさんの顔を見た酔っ払いが急に顔色を変えた。そのまま逃げるように走り去っていく。変なの……このおじさんが怖い顔でもしたのかな。
「あっ……あの、た、助けてくださり、ありがとうございます!」
ぼーっとしている場合ではない。私は慌てて頭を下げる。
「あぁ、いーよいーよ気にしないで。ちょっと見てられなかっただけだからね」
頭の上から優しい声が振ってくる。緊張がほぐれたのか少しだけ肩の力が抜けた。
「ほら、頭を上げて」
「は、はい」
言われるがまま、私はゆっくり頭を上げて彼の顔を正面から見る。
「ん? どうしたの?」
へらりと気の抜けた笑みを浮かべる男の人の顔には、大きな大きな刺青が入っていた。左の顔半分から首元までつながる複雑な模様に目が離せない。
「あ、いえ、その……なんでもありません」
静かに首を横に振る。本当に何でも無いのだ。ちょっと予想してなくて驚いてしまっただけで。でも怖い感じはしない。刺青なんて恐ろしくてたまらないはずなのに……彼の持つ独特のゆるい雰囲気に馴染んでいるみたいだった。
「あ、あの、助けていただいたお礼を……!」
「お礼なんていいよ。お嬢さんが気にするようなことじゃないからね。それより、さっきみたいなのにまた絡まれる前に早めに家に帰るんだよ」
「で、でも……!」
彼の言うことは正しい。また酔っぱらいに捕まる前に早く立ち去った方が良いのは分かってる。でも、助けてくれたのに何もしないのは心苦しかった。
「……あーあー、分かった分かった。じゃ、一杯だけ奢ってくれる?」
「! は、はい!」
困ったように笑うおじさんの提案に、私は一も二もなく飛びついた。
*
「えへへ、わたし、立ち飲み屋さんってはじめてでーすごく楽しかったですー!」
「そうかいそうかい。……お嬢ちゃん、お酒強くなかったのね」
「? なんですか?」
「いーや、なんでもないよ」
はぁ、とおじさんはため息を付いた。おじさん――名前は教えてくれなかった――に連れられて近くのおでん屋さんでお酒を奢らせてもらった。あんな風におでんを突きながらお酒を飲むのは初めてだった。なんだかふわふわして気分がいい。
夜も遅いってことでおじさんが途中まで送ってくれることになった。夜道を二人、ふらふらと歩く。いつもなら怖い暗い夜道だけど、一人じゃないから恐怖を感じなかった。隣を見ると、少し目元の赤いおじさんと目が合った。
「おじさんはー余裕ですねー? 大人の男の人、だからー?」
「いやいや、これでも結構緊張してるのよ? 若い子と二人っきりだからね」
そう言って彼はへらりと笑った。ゆるい目元と複雑な刺青に彩られた首元が色っぽくて思わずどきりとする。
彼が動くたび、ふわりと甘い香りが漂ってくる。……あの人の香水の香りだ、と気づいたのはしばらく経ってからだった。
「いいにおい……」
「ちょ、ちょっとちょっと、お嬢ちゃん?」
スリスリと胸元にすり寄れば、上から焦ったような上ずった声が聞こえた。見上げると困ったような顔をするおじさんと目が合う。刺青が歪んで、それがまた色っぽく見えた。
「全く、酔っ払いはたちが悪いねぇ。そんな隙だらけだと、悪い大人に食べられちゃうよ?」
そう言って彼はニヤリといたずらっぽく笑い、がおーっと軽く口を開いた。……子供っぽくて、無邪気で、可愛くて。私は背伸びをして、彼の頬にちゅっと軽くキスをした。
「えへへへへーうばっちゃったー!」
何となくすごく楽しくなって笑い声を上げる。驚いた顔で頬を押さえるおじさんが可愛くて、さらに笑いが止まらない。
「あーもう……!」
おじさんは乱暴に頭をかくと、そのまま私の顎をガッと力強く掴んだ。強制的に上を向かされる。黒い瞳が怪しく光ったような気がした。
「んっ……!」
柔らかいものが唇を吸い、ゆっくりと離れていく。
「――これに懲りたら、おじさんをからかうんじゃないよ」
そう言って笑う彼は、気の良いおじさんでもへらへらしたおじさんでもなく――ただの男の人だった。