提灯の明かり
私は小さい頃、変なものを見たことがある。……変なものって言われても困るかもしれないけど、そうとしか言いようのないものだったからしょうがない。
小さい頃にお母さんに連れられて神社に行ったときのこと。神社の奥の方……木が生えている場所が妙に暗くなっていた。木の下だから暗いのかなと思ったんだけど、他の場所はそこまで暗くない。あそこだけ、あの場所だけが真っ暗だった。
どうしてか気になった私は真っ暗な場所をじっと見つめた。見つめていると、ざわざわ、と何かが蠢くようなものが見えた。真っ暗な中を、真っ黒な何かがずるずると這いずっている。幼い私にはそれが「オバケ」に見えてとても怖くて恐ろしくて近くの母に泣きついた。母は頭をなでてくれたけど私が何を言っているのかは理解してくれなかった。何度も何度も指さしたけど母には見えなかったようだ。……あの恐ろしい真っ黒なものは、私にしか見えなかったのだ。
それ以来、私は神社に近寄らなくなった。神社以外にもオバケが出てきそうな場所……暗い場所や墓地なんかも近づかないようにした。暗い夜道を歩くのも嫌でできるだけ夕方になると小走りになって家へと帰った。暗闇を見るとどうしてもあの日の恐怖を思い出してしまうから。
「ねぇ、ユミちゃん、お祭りに一緒に行こ?」
――放課後、カバンに教科書を詰めていると友達のナツミちゃんが楽しそうに笑った。
「おまつり……?」
ぼーっとしていた私は彼女が何を言っているのかすぐには理解できなかった。首を傾げる私にナツミちゃんが言う。近所の神社で大きなお祭りがあるから一緒に行こう、と。
「え、神社……?」
「そう! ここで神社って言ったらあそこしかないでしょ? 毎年大きなお祭りがあるんだ! 結構出店とかも出てるんだよ」
「へ、へぇ……」
「ユミちゃん、一緒に行こ? 一緒に買食いしたり、花火見たりしたい!」
キラキラと目を輝かせるナツミちゃんに悪気はないんだろう。けれど、私は「神社」と聞いて完全に腰が引けている。思い出すのは幼い日に見た暗闇で蠢くなにか。ぞわぞわと、見ているだけで不安になる黒い塊。
……もし、またあれを見てしまったら。私は、ちゃんと逃げられるだろうか。恐怖に飲み込まれて動けなくなったりしないだろうか。
「……ユミちゃん?」
「!」
急にナツミちゃんの顔が目の前に現れて思わず肩が跳ねる。どうやら黙ってしまった私を気遣ってくれたらしい。ごめんね、と彼女に謝りつつどうするかを考える。……つまり、神社に行くのか、行かないのか。
「…………分かった、私も一緒にお祭りに行くよ」
私が神妙に頷けば、彼女はとても嬉しそうに飛び跳ねた。
「本当に!? やったぁ! じゃあじゃあ、夜に鳥居の前で待ち合わせね!」
「うん、わかった」
じゃあね!とナツミちゃんは足早に去っていった。さすが運動部、足が速いなぁ。
「…………。」
ふと右手を見るとかすかに震えていた。ぎゅっと拳を握る。
「(暗闇が怖い、なんて子どもっぽいよね。大丈夫、だってナツミちゃんだって一緒だもん)」
怯える心に活を入れる。このままじゃいけないって自分が一番わかってる。もう子どもじゃないんだ、神社に遊びに行くくらいで怯えてどうする。
軽く頬を叩いて気合を入れた私は、日が落ちる前に急いで家へと帰った。
*
夜。日が完全に落ちる前に待ち合わせの場所である鳥居の前についた。中ではすでに沢山の人で賑わっている。ナツミちゃんの言う通り出店もたくさん出ているようだ。美味しそうな匂いがここまで届いている。
「……ふぅ」
震える手を握る。どうしても神社に苦手意識があるのか中に入っていないのに心臓がドキドキする。なにもないって、あんなことそうそうないって分かっているけど……小さい頃に植え付けられたトラウマは、そう簡単には消えないみたい。
「…………。」
ずっと緊張していたからか、なんだか急にお腹が空いた気がした。出店で食べるつもりだったので夕食も食べていない。自分のお腹からくぅ、と小さく情けない音がした。……焦げるソースの匂いが更に食欲をそそる。
「ちょっとだけ……すぐそばのお店で買ってくるくらいの時間はあるよね」
まだ暗くなるまでに時間がある。すぐに行ってすぐに戻れば入れ違いになることはないはず。私はきゅっと肩掛けカバンを握りしめて、一歩、鳥居の中へと足を踏み入れた。
――その瞬間、世界が変わった。
「…………え?」
さっきまで少しは明るかったのに、あたりは真っ暗闇になっていた。たくさんいた人影も消え、楽しげな祭り囃子も聞こえない。ただ『暗闇』がそこにはあった。
「な、に……これ。どうし、て……」
訳が分からない。理解ができない。指先が冷たくなる。体の震えが止まらない。目の前の出来事を認めたくなくて無意識に後ずさると、かかとに何かがぶつかった。
「…………え、」
振り向けば、そこには大きなお社があった。古くてボロボロで壊れてしまいそうな、大きな大きなお社。大きな鳥居でも、車が行き交う大通りでもない。
「だ、だって私、ここから来て……っ!」
頭が真っ白になる。いま来た道がない。どれだけあたりを見渡しても目立つ大きな鳥居はどこにもない。見えるのは大きな社と暗闇だけ――。
「――ッ!」
暗闇の中に突然、ぼうっと光が灯った。オレンジ色の光だ。暖かな光は徐々にこちらに近づいてくる。……怖い、あれが何か、全くわからない。逃げ出したくても足に根が生えたみたいで一歩も動くことができなかった。
光がどんどん大きくなる。オレンジ色の光は提灯の明かりだった。提灯特有の柔らかい光に照らされて人影が浮かび上がる。白い髪、白い瞳。少したれ目でどこか人当たりが良さそうに見える。私よりも年上の男の人だった。
「……こんばんは」
白髪の男の人が笑顔でそう言う。私は怖くて声が出なくて、ぎこちなく頭を下げることしかできなかった。
「こんなところに来るなんて……君は迷子かな?」
「…………。」
「……うん、そうだね。こんな場所に一人は、怖かったよね。大丈夫、僕が外まで案内してあげるから」
男の人はそう言って優しげに笑う。とても恐ろしげなこの場所には不釣り合いな暖かい笑みだった。
「ほら、こっちだよ」
提灯の明かりが遠ざかる。ゆっくりと男の人が遠ざかる。足音がどんどん遠くなる。
「…………。」
どうしよう、どうすればいい。この場所に一秒でもいたくないけど、あの男の人が「良い人」とも限らない。あの人について行って更に恐ろしい目に合うかもしれない。分からない。何を信じればいいのかわからない。
どんどん闇が濃くなる。どんどん光が遠ざかる。足元から冷たい空気が這い上がる。背筋を冷たい何かが通り抜ける。
――私は、全力で前に走った。
「……わっ」
勢い余って男の人の背中にぶつかってしまった。鼻をぶつけたみたいで少し痛い。でも、それより一人になるのが怖くて私は男の人にしがみついた。
「……うん、怖かったね。もう大丈夫だよ」
頭を優しく撫でられる。男の人の手だ。細くて長い、きれいな手。女の人みたい。
何度も撫でられているうちに少しずつだが恐怖が薄れていった。今ならちゃんと歩ける、と思う。私が体を離すと、男の人は笑って私に手を差し伸べた。
「はい、捕まって」
「あ、うん……」
あまりにも自然に手を出されたので私も疑うことなく彼の手掴んでしまった。
「…………。」
私より大きな手は、少しひんやりとしていた。
*
気がつくと、私は喧騒の中にいた。楽しげに笑う声。祭ばやしの音。ソースが焦げる匂い。あたりを照らす提灯の光。上を向くと、薄暗い空の下、見慣れた大きな鳥居があった。
「……あ、ユミちゃん! ユミちゃん!!」
人垣の向こうから見覚えのある顔がやってくる。
「ナツミちゃん……?」
浴衣を着て髪の毛もキレイにアップにまとめたナツミちゃんが血相を変えてこちらに走り寄ってきた。飛びかかってくる彼女をなんとか支える。
「もう、ユミちゃん! 今までどこにいたの!? 私、ずーっと探してたんだよ!」
「ご、ごめん……」
「ううん、私の方こそごめんね! ユミちゃんが神社苦手って知ってたのにお祭り誘っちゃって……。ユミちゃん、近づくこともできなくて家に帰っちゃったのかと思ったらまだ帰っていないっておばさんは言うし、でも神社の中をどれだけ探してもユミちゃんを見つけられなくて……。私、ユミちゃんがどこかにさらわれちゃったのかって……ずっと、こわくって……」
「……うん、本当にごめんね」
怒っていた彼女だが、最後の方はほとんど泣いていた。とても心配をかけてしまったみたい。私はナツミちゃんをぎゅっと抱きしめる。
そういえば、あの男の人はどこにいったんだろう? どうやって帰ってきたのか覚えてないけど、ちゃんと帰って来られたんだからお礼を言わないと。そう思い振り返ってみたけれど、そこにはあの白い髪の男の人の姿はなかった。
右を見る。小さな子が水風船を手に楽しそうにはしゃいでいる。
左を見る。恋人同士かな、仲良さげな男の人と女の人が腕を組んで歩いている。
「……?」
どれだけ見回してもあの特徴的な髪色を見つけることができなかった。あんなに分かりやすいのに見つからないなんて……。
「ユミちゃん、どうしたの?」
ようやく泣き止んだナツミちゃんが不思議そうに私を見ている。
「……ううん、なんでもないよ」
私はゆっくり首を振った。彼女にこれ以上心配をかけちゃダメだ。それにこの神社で出会ったってことは、またこのあたりで出会うかもしれない。……また神社に近づくことになるけど、私もちゃんとお礼が言いたいから。
「私、お腹が空いちゃったみたい。何か食べよう?」
「うん、そうよね、せっかく来たんだから食べなきゃソンよね! あそこにベビーカステラがあったの、あれ食べましょ!」
「分かった」
ごきげんなナツミちゃんとはぐれないように手をつないで歩く。楽しげな雰囲気にさっきまで感じていた恐怖がなくなっていった。
*
次の日。歩き回りながらもあの人を探したけど結局見つからなかったので、学校に行くときに神社を覗いてみようと朝早くから家を出た。日中よりもまだ涼しいので歩きやすい。あんまり寄り道をすると遅刻しちゃうので小走りで神社へと向かった。
朝早くに見る神社はまた違った雰囲気があった。厳か……っていうのかな、なんとなく入りにくい。真っ暗な夜とは違った近寄りがたさがあった。
「――おはよう、今日は早いんだね」
「! あっ……!」
急に声をかけられて驚きながら振り返ると、白い髪で白い目をした優しげな男の人がいた。キレイな白い髪は朝日に照らされてキラキラと光っている。暗い中で見たときは少し不気味な色だなぁと思ったけど、明るい中で見たら神秘的でそこまで変とは思わなかった。
……よかった、ちゃんと存在していた。ほっと息をつく。あんな変な場所で出会って、しかも急にいなくなったから「オバケ」なんじゃないかと思ってたんだけど……ちゃんとここに存在してるし、足もある。間違いなく普通の人間だ。
男の人はクスクスと笑う。どうやら私がオバケじゃないかと思っていたことがバレたらしい。思わず顔が赤くなる。恥ずかしい。すっごくすっごく、恥ずかしい。
「本当に、君は可愛い人だね。」
「かわっ……!?」
聞き慣れない言葉に思わず変な声を上げてしまった。男の人を見れば相変わらず楽しげに笑っている。……ふと目が合えば、彼は優しげな目を細めてとろけたような笑みを浮かべた。
「…………ッ!」
どくり、と心臓が大きな音を立てる。どんどん心音が早くなる。指先が震え、さっきよりも顔が熱くなってきた。
「(どうしよう、どうしようどうしよう……!?)」
ドキドキしてくらくらする。まっすぐ立っていられない。私、どうしたらいいんだろう!?
――顔を真赤にして目を回す少女を、白い青年は楽しげに見つめていた。