ある男の休日 #同じテーマで小説を書こう
真っ白な紙が机の上に横たわっている。窓から差し込む光を照り返すそれは、どこか空に浮かぶ入道雲に似ていた。俺は握りしめた万年筆の先を紙の上にそうっと乗せる。じわり、と碧が白を侵食していく。蜘蛛が地を這うように四方八方へと散らばるそれらを、俺はただぼーっと眺めていた。
この光景も、何度目だろうか。
腕が動かない。書けない。進まない。どうしても白が碧に染まらない。書こうとすればするほど手は止まり、意味の持たない記号だけが白の上に流れていく。
俺はおもむろに握っていた万年筆を放り投げた。硬質なものがぶつかる音がする。椅子の背に体を預けてそのまま後ろに反らせると骨が軋みを上げる音がした。
「…………。」
見上げた先にあるのは古びた木の板と明かりの切れた年代物の吊り下げランプ。セピア色のそれらは俺の心の奥底にまで侵食してくるようだった。
「……出るか」
紙と予備の万年筆と手帳と財布、必要最低限の物だけ鞄に突っ込んで俺は部屋を後にした。
外に出た瞬間、光が目に突き刺さった。思わず目を細める。しばらく外に出ていなかったせいか目が強い光に怯えているようだ。
顔をしかめながら石畳の上を重い足取りで歩いていく。俯きそうになる顔を無理やり上げると、格子の様な木組みの壁や合掌造りのような屋根――いつまで経っても見慣れることが出来ない異国の街並みがそこにはあった。美しい街並みに異物が入り込んでしまった気がして気分が更に沈んでいく。
太陽の光と石畳の照り返しに負け、俺はふらりと近くの店に入った。見た目は民家と変わらない隠れ家のような店だ。滅多に外に出ない俺が唯一入れる店である。
いつもの老婦人に適当に注文し、俺は店の外のテラス席に座った。ちょうど建物の陰になっていて過ごしやすくなっている。
俺は鞄から仕事道具を取り出して机の上に広げた。相変わらず原稿は白いままだ。一文字も埋まっていない。肺に詰まった重苦しい空気が口から零れた。
しばらく白紙の紙と格闘していると老婦人がやってきてビールと小鉢を机の上に置いた。野菜が白いもので和えられている。見た目は酢味噌和えのようだ。口に入れてみると何とも不思議な味がした。初めて食べるのにどこか故郷を思い出す味だった。
……網膜の裏に焼き付いたセピア色が、少し薄くなったような気がした。
「お休みなのに、お仕事するの?」
急に誰かが話しかけてきた。少したどたどしいが久方ぶりに耳にする母国語だった。顔を上げると、金髪に碧目の人形のような少女が不思議そうな顔で俺を見ていた。
「日曜日はね、お休みの日なのよ? だからお仕事はしないの。家で家族とゆっくりするの」
少女はそう言いながら正面の椅子に腰かけた。そのまま老婦人に飲み物を頼んでいる。
「君は、いいのか? 家族と過ごす日なんだろう」
「私は良いの。だって今日は『おばあちゃん』と一緒にいるつもりだもん」
「……そりゃ、悪いことしたな」
どうやらこの少女は老婦人の孫らしい。俺が店に来たからゆっくり出来ない、だから早く家に帰れ。そう言いたいようだ。
「日本人が勤勉なのは知ってるのよ。でもね、休まないと仕事も出来なくなるのよ? 倒れてからじゃ遅いの。もっと自分に優しくしてあげなきゃ。分かった?」
少女の小言に苦笑いが零れる。普段の俺なら不愉快になったはずなのに彼女に言われても特に嫌な気はしなかった。
彼女の言葉が、目が、その心が、亡くなった母に似ているからだろうか。
「けどな、俺にはこれしかないからなぁ……」
そう言いながらも俺は亡くなった母のことを思い出していた。
遠い日の記憶。俺には勉強しかないのだと思い込んで無茶をした挙句熱を出して倒れた俺を、心配した母が傍でずっと看病してくれたのだ。あの時母が言った言葉は今でも昨日のように思い出せる。
そう、確か――……
『自分に優しくしても、バチは当たらないんじゃないかい?』
「自分に優しくしても、バチは当たらないよ?」
「――――。」
……その一言で、色褪せた俺の世界に感情【イロ】が溢れた。
***
遠く、女性の声が風に乗って聞こえてくる。この国の言葉だ。誰かを探しているらしい。
「あっ、ママが呼んでる! じゃあね、お兄さん!」
少女は急に立ち上がると店の奥へと走っていった。風のようにあっさりと、少しの寂寥感を残して。
俺は白紙の紙にペン先を置いた。今まで動かなかったのが嘘のように手が動く。自分の内から言葉が、色が、溢れ出して止まらない。自分の手が遅くて苛立つほどだ。こんな感情【イロ】、初めて『恋』を知ったとき以来じゃないだろうか。
「どうしようもねぇな、ったく……」
――彼女には悪いが、まだまだ俺の『休日』は来ないようだ。