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あれはたぶん、心霊現象だったんだと思う。

 その日、私はいつもと同じ夜を過ごしていた。仕事が終わった後にコンビニに立ち寄り缶ビール数本と惣菜を購入。疲れた足取りで少し古いアパートへと帰る。駅から離れていて不便だがその分家賃は安い。基本的に薄給なので安いのは大事なことだ。不便なことよりも大事なことなのだ。
 家に帰れば待ちに待った晩酌だ。下着だけの状態で買ってきたつまみ替わりの惣菜の蓋をあけ、缶ビールも開ける。少し温くなったそれをぐぐっと煽ればアルコールが体に染み渡る。
「くーっ! うまい!」
 高揚感とともに惣菜を頬張れば幸せが口いっぱいに広がる。……安っぽい幸せというなかれ。仕事終わりのこの一杯のために生きていると言っても過言ではないのだから。仕事は夜遅くまであるし、休日出勤もザラだ。こういう小さい幸せを積み重ねることが元気に生きていくコツなのだ。
 その日はいつもより酔うのが早かった。缶一本でほろ酔い気分になった私は二本目を開けようと傍に置いたビニール袋に手を伸ばした。
 その時だった。
 ――ぺたり、ぺたん。ぺたん、ぺたり。
「え……?」
 奇妙な音が聞こえた。初めは水道の蛇口から水滴が落ちる音だと思った。だから台所まで確認に行ったが蛇口はしっかりと閉められていた。――水滴の落ちる音じゃない。
 ――ぺたん、ぺち、ぺと、ぺとり。
 奇妙な音が近づいてくる。何か叩くような音だ。一定の間隔で聞こえる。……何かの足音にも、聞こえなくもない。裸足でコンクリートの上を歩いているみたいだ。ぺたり、ぺたり。音が大きくなる。
 不気味に感じた私は怖くなって急いで玄関まで走った。酔っていたことも相まって足がうまく動かない。転がるように玄関まで行くと震える手を抑えつつチェーンをかけようとした。しかし手が震えて上手く動かせない。
「はやく、はやく……ッ!!」
 震える手がようやくチェーンをかける。ほう、と息をついた。これでもう大丈夫だと気を抜いた瞬間。
 ――ドンドンドンッ!!
「!?」
 急に爆音が響いた。思わず飛び上がる。音はすぐそばから聞こえる。ドアだ。何かがドアを叩いている。パニックになった私はちゃぶ台の下まで這うように移動した。
 この時点ですでに酔いは醒めていた。体の震えは止まらない。何が起きているのかさっぱり分からない。怖くて怖くてたまらなかった。
 ――ドンドンドンッ!
 体を丸めてじっとしていても音は止まらない。誰かがずっと叩いている。まるで「出てくるまで止めないぞ」と言わんばかりだ。
「……もうッ! 分かった、分かったって!! 開ければいいんでしょ!」
 もうヤケになった私は大きな声を上げて恐怖を誤魔化しながら大股で玄関まで歩くと、チェーンをかけたまま乱暴にドアを開いた。
「…………!」
 正直、悲鳴を上げなかった私を褒めてほしい。
 扉の隙間からは白いシルエットが暗闇にぼうっと浮かび上がっていた。私の身長の半分くらいの大きさだ。白い布のようなものが浮かんでおり、裾からは肌色が少しだけ見えていた。
「――――。」
 その白い何かはゆっくりと首を上へ傾けた。まるで私を見上げたみたいな動きに背筋に冷たいものが流れた。理解の及ばない物体に認識される。何とも形容しがたい感覚が体中を這い回る。気持ち悪い。ただただ、気持ち悪かった。
 白い物体はじっとこちらを見つめると、小さく、だがはっきりと声を発した。
「――とりっくおあとりーと」
「…………は?」
 思考が止まる。男の子か女の子か分からない子供特有の高い声だった。つまり目の前のコレは布を被った子供だということで……。
「とりっく……あっ、ハロウィン?」
 子供が発した言葉を何とか飲み込むとようやく事態が掴めた。どうやらこの子供はお菓子をもらうために家を回っているようだ。体から一気に力が抜ける。こんな子供に怯えてたなんて恥ずかしい。だがそれ以上に理由の分からない恐怖から解放されて心底安堵した。
「お菓子ね、ちょっと待ってて」
 私は子供にそう言って一度ドアを閉めた。冷静になった私は下着姿のままで子供の前に出たことに気づいて苦笑いが零れる。どれだけ焦っていたのか……せめて上着を羽織ればよかった。見られて恥ずかしい、というより変なものを見せてごめんなさい、といった気持ちの方が強い。トラウマにならなきゃいいんだけど。
「お菓子おかし……あったかな?」
 ハンガーにかけていたロングカーディガンを羽織って冷蔵庫横のお菓子置き場を漁った。
「えーっと……あたりめ、チータラ、ジャーキー……あとはイカ天?」
 箱の中には見事にお酒のおつまみしかなかった。さすがに子供にあげるのは躊躇われる。ハロウィンのお菓子にジャーキーとか……うん、アメリカンだけど違うよね。
 悩んでいると、ふと視界にオシャレな紙袋が見えた。そういえば今日、会社の人にもらったものだ。仲良くはない、知り合い程度の男が渡してきたもの。なんとなく受け取ったが正直扱いに困っていた。
 ……それでも、普段の私なら「人からもらった物を誰かにあげるなんてありえない」と思うはずなのに、今日の私は何のためらいもなく紙袋の中の箱を手に取ったのだ。
「これ、店名的にチョコだよね。あの子チョコレート好きかなぁ」
 おかしいことに気づかずそのまま玄関へ向かうとチェーンをかけたままドアを開けた。隙間からは相変わらず白シーツのおばけがぼうっと突っ立っている。初めは怖かったその姿も今となっては子供らしくて可愛く見える。
「お菓子持ってきたよ。これでいいかな?」
 私は綺麗なラッピングの箱を子供に差し出した。白シーツのおばけが下を向く。じっと私の手元を見たあと、シーツの下からごそごそと何かを取り出した。手に持っているのはカボチャの形をしたプラスチックのバケツのようだ。どうやらこの子のお眼鏡にかなったらしい。私は差し出されたバケツの中にチョコを入れた。
「……ありがとう」
「どーいたしまして。夜遅いから、早めにうちに帰るんだよ?」
 白シーツのおばけは一つ頷くと、一度大きくお辞儀してからまたぺたりぺたりと足音を鳴らして廊下を去っていった。
「はー……びっくりした! もう飲も飲も!! 今日はとことん飲むぞー!!」
 謎の状況から解放された私は、もう何も考えたくなくて残っていたお酒を全部飲んで泥のように眠りについた。
 ……次の朝、部屋の酷いありさまに頭を抱えたのは言うまでもない。

***

「あれ? 先輩、今日は具合よさそうですね?」
「ん?」
 散らかった部屋という現実から逃げて出社した私に後輩の子が話しかけてきた。仕事の覚えが早くて真面目。性格は人懐っこい犬のような子だ。
「どちらかというとテンション下がってるんだけど……」
「確かにテンションは低いですけど、私が言っているのは顔色の話です。今までずっと具合悪そうで心配してたんですよ……」
「そう、だったっけ?」
 よく覚えていない。特に体調が悪かったとは思わなかったしいつも通りだったと思う。けど後輩の子だけじゃなく少し離れたところにいる上司も同意するように頷いている所を見ると本当に具合が悪かったようだ。
「心配かけてごめんね、もう大丈夫だから」
「そうですか! 本当に良かったです! ……ここだけの話、あの男に何かされたんじゃないかって心配してたんですよ」
「……『あの男』?」
 話はそこで終わるかと思っていたが、後輩の不穏な言葉に思わず聞き返してしまう。
「噂になってたんですよ……あの男が先輩に粘着してたって」
「粘着って……そんな、テープじゃないんだから」
 あまりの表現に思わず笑ってしまうも後輩はにこりともしなかった。その深刻な表情につられて私も笑みを消す。
「あの人、一見爽やかで優しそうなイケメンなんですけど……根暗っていうかストーカー気質? 惚れた相手を囲ってるっていうか……。前にあの男の被害に遭った人で部屋に閉じ込められたって話も聞いたことがあるんですよ」
「閉じ込め……ッ!? いや、もうそれ犯罪だよね?」
「そうですよ! 犯罪です!! でも、会社の重役の子だかなんだかで大ごとにならないんですよねー……。だから先輩、気を付けてくださいね? 変なものをもらったり食べたりしちゃダメですよ?」
「…………。」
 後輩の子の言葉に、私は何も言えなかった。だって昨日変なものをもらったばかりだったからだ。しかも食べ物。ブランド物のチョコレート。……よく考えてみると、あれは私が好きなブランドだった。もちろんあの男にそんな話をしたことはない。
「――――。」
 ゾクリ、と嫌な寒気がした。
 そもそもあの日は色々可笑しかった。普段の私なら家の鍵は閉めたけどチェーンはかけなかっただろうし、インターホンが鳴っても気づかないくらい深酒をすることもなかった。
 ……あの時、アレを食べていたらどうなっていただろう。
 あの子供が来なければ、私は――……。
「……先輩?」
「へっ……?」
「へっ? じゃないですよ。大丈夫ですか? ぼーっとして……やっぱり具合が悪いんですか?」
「……大丈夫。ちょっと飲みすぎちゃっただけだから」
 そう言って笑みを浮かべるも後輩は心配そうな顔を崩さない。私は彼女に適当な仕事を押し付けて話をそらせると、そのまま自分の仕事に取り掛かった。隣から若干不服そうな声が聞こえるが無視だ無視。
「うぅ……それにしても、今日もあっついですねぇ。セミの鳴き声が聞こえなくなったっていうのに……」
「――えっ?」
「だってもう九月になるんですよ? そろそろ涼しくなってもいいと思いません?」
「そ……、うね、」
 言葉に詰まる。頭が動かない。
 そう。後輩の言う通り今はまだ、八月。八月の最後の日だ。
 ハロウィンはまだ来ていない。
 お盆もとうに過ぎている。
 なら、あれは――……。
「…………。」
 ――今さらの話になるが。
「あれ……先輩? ちょ、ちょっと、先輩ー!?」
 ――私は、ホラーが大の苦手である。

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photo by nik radzi

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鷲仙そらまめ
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