「許嫁」
道場で木刀を振る。腕を上げ、体を使い、上から下へ無心で振り抜く。何度も何度も繰り返す。切っ先はブレることなく同じ軌道をなぞる。……もう何年もやってきたことだ。振れば振るほど体は撓い、刀は鋭さを増していく。研ぎ澄まされる体とは裏腹に、俺の心はどんどん擦り切れていく。
「は、ぁ……」
集中が切れた。構えを解いてその場にしゃがみ込む。……分かってる、集中できないのは瞼の裏に張り付いたあの笑顔のせいだって。
彼女と合ったのはひと月ほど前だ。古い知り合いの娘だ、と紹介された彼女は俺と年が変わらないごく普通の少女だった。黒いまっすぐの髪に黒い目。大人しそうなおっとりした顔。着崩すこともなくきっちり着こなした制服から彼女の人となりがなんとなく伝わった。
彼女は俺を見るなり顔を真っ赤にして俯いた。
『あ、あの、はじめまして……。水上 菫子、です……』
小さな声だったが、聞き取ることは出来た。か細い、鈴のような声だった。
『……佐々 博章』
とっさにこう返すことしか出来なかった。その後、どうなったか記憶にない。何か話したような気がするし、ただ黙っていたような気もする。気がつけばあの女の子が「許嫁」になっていた。父と母が上機嫌で「よかった」と言うが俺は混乱するばかりだった。恋愛結婚が主流の現代において「許嫁」が出来るとは微塵も思ってもみなかった。
「許嫁」が出来たからと言って何をすればいいのかわからない。木刀を振るしか能のない俺に女の子の喜ばせ方とかてんで想像がつかなかった。何度かうちに遊びに来てくれたがうまく話せた気がしない。
いや……では、ないと思う。そもそも嫌いになるほど彼女を知らない。俺が知っているのは彼女が甘いものが好きなこと、あまり話すのが得意でなくいつも静かに微笑んでいること、道場の隅に座りじっとこっちを見つめていること。それだけだ。
「(……なんで何も言わないんだろ。文句でも言えばいいのに)」
口下手な俺を罵ってくれればいい。表情が変わらないって、何を考えてるか分からないって怒ってくれればいい。そうすれば俺も気が楽になる。何もしてない、出来ない俺が悪いんだって思えるから。
「(――言わないよな、アイツは)」
溜息がこぼれる。彼女がそんなやつじゃないことぐらい分かっている。馬鹿なことを考えたな、俺。……自己嫌悪でますます気分が落ち込んでいく。
「ひろ! 菫子さんが来たわよ!」
「!?」
遠くから叫ぶおふくろの声に飛び上がる。……え、アイツが来たって? 今日は平日だぞ。彼女が来るのは決まって休日の昼間じゃなかったか。思わず壁にかけられている時計を見る。……もう六時を回ってるんだが。
「しつれい、します……」
透き通る声が道場に響く。出入り口の方を見ればセーラー服を着た黒髪の少女がいた。視線が合うと少女は軽く頭を下げる。
「こ、こんばんは」
「こ、んば、んは……」
頭を下げる動きがぎこちなくなる。頭がぐるぐる回る。思考ができない。心音が耳元で聞こえる。木刀を強く握りしめて手先の震えを誤魔化した。
「あ、あの……ごめんなさい、こんな遅くにお邪魔して……」
「……い、や、別に……」
申し訳無さそうな顔をする彼女に首を振る。迷惑じゃない。ただ、俺がどうすればいいのかわからないだけだ。
「あの、本当に、大した用事はなくて……えっと、あの、私……」
俯いて手をいじる彼女を見つめる。俺の方が背が高いからか、彼女がいつも俯いているからか、俺が見る彼女はいつもつむじだなと、ふとそんな事を思った。
ぼーっとしていた俺は、顔を上げた彼女と目が合い一瞬体がこわばった。いつもの穏やかな目ではなく、何か決意したような強い光を宿していたからだ。
彼女は一つ短く息を吐くと、いつもより大きな声で言った。
「博章さんに、お会いしたくて」
「――――。」
それは、一体どういう意味なのか。俺に会いたいっていうのは、ただ会いたいだけなのか、それとも……。
「ご、ごめんなさいっ! 私、博章さんにご迷惑を……」
「――迷惑じゃない」
気づけば俺は彼女の言葉を強く遮っていた。
「……え、」
彼女は驚いた顔でこちらを見ている。無理もない。俺が声を荒らげたのは今回が初めてだ。いつもは怖がらせないようにって黙って静かにしていたから……。
一度口にした言葉を引っ込めることは出来ない。俺は軽く息を吸って覚悟を決める。
「迷惑じゃ、ないから。いつでも来ればいい。……相手、できないかも、だけど」
「! は、はい! ありがとうございます!」
彼女はそう言って嬉しそうに笑った。まるで花咲くような笑顔だった。……見たことがない、顔だった。
「…………。」
あの顔で見つめられるのが何となく恥ずかしくなって、視線を振り払うように木刀を構え勢いよく振り下ろした。