何故霊能者の助言を聞いてしまうのか
戦うか逃げるか反応(fight-or-flight response)
生物は、ことさら死を避けます。人間も生物なので、死を連想する状況下にあれば、防衛反応として筋肉が萎縮し、警戒心が増します。
その背景には不安と恐怖という情動が存在します。
例えば、畳のヘリを歩くときは難なく歩けます。この時に冷静な判断や思考も訳ないでしょう。簡単な算数の問題も難なく解けます。
しかし、2メートルの高さの、畳のヘリよりも太い幅のブロック塀の上を歩く場合は、心身共に萎縮してしまいます。その時には、普段難なく解けていた算数の課題も、それどころではなくなっているかもしれません。
スカイツリーには真下が透けて見えるアクリル製の床があります。
絶対に落ちないと分かっていても、そのアクリル製の真下が透けた丸見えの床の上には萎縮して、なかなか進めない人もいるでしょう。落ちないと分かっていても、手すりを離すことすら、躊躇してしまいます。
こうした状況下では、人間は心身が萎縮し、IQが極端に下がっています。
理屈では、ブロック塀の幅は畳のヘリより広いし、透明なだけで、頑丈なアクリル製の床は安全性だと思っても無意識レベルで警戒してしまうのです。程度の差はあれど、不安や恐怖は本能的、生理的情動なので仕方ないのです。
この時の脳は、『戦うか逃げるか反応(fight-or-flight response)』状態に陥っています。
そのときは不安や恐怖が有意になり、IQは極端に下がっています。
分かっていてもIQは下がる
先程の例のアクリル製の床のように、絶対安全だと理性では認識しても、無意識では恐怖を感じIQが下がる。
それは、心身の死を本能的に連想するから無意識が警戒するからです。
もう、お分かりかと思いますが、霊能者さんが扱う領域は死の領域です。
加えて、依頼者が医師や一般的なカウンセラーを差し置いて霊能者に繋がり相談したいという状況は、普段では考えられないくらい追い詰められた、まさに『戦うか逃げるか』という状況下にあると言えるでしょう。
その状態は、透明なアクリル製の床の上に立っている状態で、手すりでもなんでもすがりつきたい状態なのです。
IQが下がっているから、普段は考えられ無い行動をとってしまう。だから、カルトが勧めるとおりに、大金で壺や宝石を買ってしまう確率が非常に上がるのです。
そして厄介なことに、霊能者やその側近の方は、相手に共感共鳴し、心の底から依頼者が救われてほしいと思っています。心からの善意です。だから分かりにくい。
※
私は縁あって、様々な霊能者と言われるような立場の人と知り合うことができましたが、殆ど多くの方々は、全て善意からの行動でした。
しかしあまり知識量やバラエティに富む読書量が少ない印象だったり、過去の古いスピリチュアル的な教えに固執傾向があるが、それに自覚がないような印象の方々が多かった気がします。
霊能者はスピリチュアルに詳しいという先入観が私にあるからか、釈迦の空の思想や非二元の概念が皆無なのは、正直なところ驚きと失意を感じました(偉そうに感じるかもしれませんが・・・)。
非二元や空、キリストの愛の概念がなければ、無明の世界にさらに霊能者の幻想を重ね、結局は有害な現象にしかならない気がします。
だから助言や、その背景理論も昭和的な古い倫理や道徳観念に集約されているような気がします。
例えば最後は、感謝が必要、先祖供養、善行、徳を積むなどに面談は収束します。
結局それらの善行は、行うことで自分や家族が救われるという、巨大な取り引き行為にみえるような印象が多く見受けられました。
つまり生存本能からの行動です。
巨大な取り引き行為
私たちの住む世界は、物理次元なので原因と結果が常にあるようにみえます。
医師やカウンセラーという存在も、その物理的システムの中にあるものと考えると、全ての行為は巡って自身の利益のためになります。
『〇〇したからこうかる』という前提があると、行動の背景に期待や希望があり、叶わなければ失望します。その失望は、人間的で非常に自然な感情です。
しかしその感情を、自身の未熟さや欠点に還元してしまうとおかしなことになってしまいます。続いて、その原因を、カルマや自身の功徳の無さなどはっきりしないあやふやなものに還元します。
そうなると、不安と恐怖のループにハマります。常に透明なアクリル製の床にいるような感じです。
ますます手すりにしがみつきます。なんでもいいから縋りつきたい状態になってしまいます。
主従感覚追及思考
こうした不安と恐怖のループから逃れるために、依頼者は、霊能者のどんなささいな指示もありがたくおもえしまいます。
霊能者からの何気ない言葉も、それに主従してしまうことに快感を感じ、それを追い求め続けることが、人生の目的になります。
主従する感覚を追及して、安心という報酬を得ようとします。
こうして考えない人間が誕生しますが、この現象は政治、職場、学校、親子、夫婦など様々な関係の中で、見受けられます。
このことが一概に全て問題があるわけでは、ありません。
ただ人間という生物は、古来から生存を維持するために、この感覚を研ぎ澄ますことで生きながらえてきました。
そういう、何百万年単位の遺伝子に刻み込まれた行動パターンがあり、不安と恐怖が長く続く状況下にあると、抜けられない行動ループにはまってしまうのです。
これは、個人単位での影響にとどまらず、集団や、国家レベルにまでなると大変です。
自分が信じた指示や情報以外は全て、間違いが悪いものとして映り、攻撃的な反応をもしめします。これを心理的盲点(スコトーマ)と呼びます。
スコトーマに隠れた情報は、認知的不協和で全く見えなくなります。
この状況は、現代の世の中、世界的にも見受けられます。
つまり物質文明的には進歩したが、精神的な領域はまだ原始的な状態に、人間は状況を設定するとなってしまうということです。
今日では医師や科学者によっては、180度正反対の意見を言うことが珍しくありません。Aの意見を信じる者は、他のB以下の意見を見下したり攻撃します。逆もまたしかりです。
道で分からない状況下では、もはや霊能者も医師も科学者も同じように見えてしまうかもしれません。
死を遠ざけすぎた
私たちは、生物である以上、物質的な身体はいつか崩壊します。それを人間は死と呼びました。
文明が発達したおかげで、老いや病、死という現象がファンタジーのように身近なものとして感じにくくなっています。
つまり死に対して免疫がなくなっているのでしょう。
そうなると、ちょっと老いや病、死を連想させる現象を感じるだけで、過剰に反応し、戦うか逃げるか反応を示して、馬鹿な行動をとりやすくなります。
死に対する過剰なアレルギー反応です。
霊能者と呼ばれる支援者を含め、輪廻や魂、死後の世界を逃避や言い訳にしないで、今一度向き合うことが大切かと思います。
死生観について、真剣に取り組むと、急がば回れでさまざまな事柄が、芋づる式に前進するのではと思っています。
それは今の政治や日常の生活の指針、科学的な方策全てにおいてです。