プラーナと「生命素粒子」ーその1ー
※今回の記事も前回からの流れを受けて描いています。この記事だけでも読んで楽しめると思いますが、よろしければ前回までの記事もご参考にされてください。
上図はミクロ宇宙からマクロ宇宙までの物理宇宙を示した図です。
「人間原理」
・・・→1素粒子→2原子核→3原子→4DNA→5人間→6山→7地球→8太陽系→9星→10銀河→11大宇宙→・・・
というように、ビッグバンから現在の宇宙は進化発展してきました。
その年月は実に138億年といわれています。
しかし、偶発的な素粒子から原子核、そしてタンパク質が誕生して生命が誕生するための時間は138億年では全く足りないといいます。
そして、地球上で生命が誕生する確率も、45億年の地球の歴史ではタンパク質を一つ生成するにも足りない時間といわれています。
なぜ、素粒子や原子のような無機質な物質から生命が誕生し、その中から詩や絵画、文明を築く人間が誕生したのかは全くわかっていません。
これは、前回までの記事で言うところの物質的な宇宙観のみの観点では解明することが出来ない問題です。
前回の記事に書いたように、物質的な宇宙、つまり素粒子というミクロから銀河宇宙を超える大宇宙というマクロのサイズまでの物理現状には、認識する主体があって初めて生成します。
これは物理学で言う「人間原理」という概念に通じます。
つまり「人間原理」がいうことは、知的情報処理を行う生命的な存在がいるからこそ、この物理宇宙が存在することが出来るということです。
「人間原理」は物理学の原理であるにもかかわらず、哲学的、心理学的、宗教的、スピリチュアル的な観点ですね。
その一つの例として、素粒子の観察実験で有名な、二重スリッド実験におけるように、物理現象は観察者という認識主体とは切っても切り離せません。
つまり、素粒子から大宇宙までを含む物理宇宙は、観察する何らかの生命現象と一体として存在しており、物理現象と生命現象はコインの表裏一体のように不可分な関係性ということです。
「人間原理」から考えられる、知的生命現象の情報処理
私たちが毎日接しているスマホやパソコンは、極めて高度な情報処理機器です。
それらは、人工知能も搭載していますが、まだまだ生命現象とはいえないでしょう。
生命現象の定義はさまざまですが、「これが私だ」という内省的な自我がないことが人間と人工知能の違いとも言われています。
確かに朝から晩までお金や仕事のことばかり考えている人間は、「これが私だ」と実感する機会は非常に少ないでしょう。このような現象は「哲学的ゾンビ」と呼ばれるようです。
大きな喜びや悲しみ、という体感は、「これが私!」という大きな体感に結びつきますが。高度にシステム化された文明では、そのような機会は減ってきています。つまり、システム化され、プログラム化された日々を送る人類は、代価可能なAIと同様ともいえるでしょう。
そのような作業はAIが代わりに行いますが、システム化された生活パターンが人間そのものと錯覚化してしまっている人々が、AIが進歩しすぎるとAIに仕事を取られ、創造性も奪われ、人間の居場所がなくなると器具しているのかもしれません。
そのような不安が何故芽生えるのか、ということは、哲学的ゾンビの状態が広く蔓延化し、本当の意味において「生きる」ということがわからなくなっているからなのではと思います。
花や海、空を見て感動し、うれしい、楽しい、誇らしい、すがすがしい、悲しい、怒り、といった感情をしっかり体感し、
他者がそのような感情を持っていれば一緒に共鳴し、共感し、一緒に楽しんだり、一緒に泣いたり、時には助け合ったり、という自然な情動を伴う言動をおこなう、
そして、この時代やこの世界、この宇宙に存在して理由なく「よかった」「誇らしい」「嬉い」「感動する」という言動は、AIにとって作業効率が悪く意味のないものでしょう。
しかし、それこそが生きるということで、それはその時、その場での特有の出来事で、正確な再現など不可能です。
人工知能が「これが私」という実感があっても、それは外部からプログラミングされた結果ということは否定できません。
生命の情報処理
人工知能と生命の境目は、曖昧なように感じますが、その差は大きな敷居があります。
しかし、生命が「これが私だ」とい実感し、認識し、考えるということは、それは何らかの情報処理が働いていると言うことです。
情報処理であるならば、そこには何らかの情報伝達が行われているということです。
物理現象での情報伝達は電気信号であり、その最小単位は素粒子ということになります。
では、人間の脳内の情報処理過程も電気信号のやりとりとして見ることが出来るので、私たち人間の本質的な正体は素粒子なのでしょうか?
しかし、これまで前回や前々回の記事で見てきたように、素粒子という物質の最小単位出会っても、それは物理現象であるならば、映画で言うところのスクリーンに写ったイメージのようなもので、存在の本質ではありません。
物理現象は、情報処理の結果であり、情報の写像でしかありません。
それは哲学者プラトンが洞窟の比喩で例えた影のような者です。
すべての物理現象は、何らかの投影や写像にしか過ぎないのです。
つまり素粒子も物理現象の基本ユニットではあるかもしれませんが、存在の本質ではないということです。
物理的な情報処理の進化の限界は人工知能までがマックスでしょうが、それは人間よりも多くの分野で最適解を導き出しはしますが、生命現象ではありません。
※
では生命現象とはなんでしょうか?生命現象にも情報処理過程があると言うことは、物理現象の最小ユニットである素粒子があるように、最小ユニットが存在すると考えられます。
動画:苫米地氏の語る生命素粒子について
(31) ホーキング博士は真の物理学者ではない!! Dr.苫米地 2018年4月2日 - YouTube
※9:30~から生命現象と物理現象について詳しく語っておられます。
この動画では、前半はスティーブン・ホーキングという宇宙物理学者の業績を紹介します。そして、経済学に心理学や人間の行動原理が導入された経緯を紹介し、今後、物理学にも人間の認知や心理学が導入されることが当たり前の時代になるということを話しています。
物理空間は情報空間の写像であり、情報空間の抽象度の低い部分が物理空間であるとい超情報場仮説を唱えています。
この例えとして、情報空間と物理空間は連続性を持ち、物理現象の部分を脳、情報の部分を心というように苫米地博士は言います。
そして、生命情報場、情報場、物理空間を従来する素粒子があり、それを生命素粒子と名付けています。
動画では、生命素粒子のことを「気」と言うように読んでいます。
ゲストの勝間さんがおっしゃるように、この理論であれば物質の塊であるタンパク質の塊がなぜ生命になったのか?という謎が理解できるといいます。
つまり素粒子から原子が生まれ、DNAから生命が誕生したという背景には、生命素粒子というエネルギーが関与しているから、進化の爆発的な加速が可能になっているということです。
続く