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「私」と「魂」―これでいいのだ!ー

ホログラフィック宇宙

このnoteで何度も描いているように、この世界は映画「マトリックス」のように、あらかじめ存在しているホログラフィックの世界に私たちは存在しているという考えが、急速に広まっています。

VRゴーグルをつけて、ゲームの世界に没入すると、現実かゲームの世界なのかは分かりません。そのゲームの中で、走ったり、歩いたり、仕事をしたり、余暇を楽しんだり、結婚したり・・・と無数のシナリオを生きることが出来ますが、

それらはあらかじめゲーム開発者が想定したプログラムの中の選択肢の一つです。

2020年代で、そのような技術と発想が十分に可能ならば、100年後、1000年後、1万年後、1億年後の知的生命体の技術であればどれだけ精巧なホログラフィーが出来るかということです。

その超知性体が創った世界が、私たちの生きている宇宙であるという可能性は十分にあるものです。

AI技術の進歩から、急速に技術革新や考えのアップグレードが続いているので、ほんの10年前の価値観で世界を眺めることは、もう時代遅れの時期に入っているのだと実感します。

魂とは

宇宙の成り立ちや構造についての仮説は諸説あり、これからますます突拍子もない仮説が発見されたりするかもしれません。

しかし、そんな情報進化の激動の流れの中で、変わらないものもあります。

その変わらないものの中の一つで、

「私たちは存在ししている」

という事実です。

デカルトの「我思う。故に我あり」ですね。

では、どのように「存在」しているのか!?」というと、「進化と成長という変化」の流れの中で私たちの意識の「在る」という感覚が存在しているということです。

進化と成長とは、時間間隔というホログラフィーの中でしか味わえない醍醐味です。

その時間経過とともに、私たち生命は、より深く、遠くにまで意識の範囲を広げてきたという事実があります。

生命は単純な神経系から複雑な構造を作り出し、様々な動植物のアバターという目から、この宇宙自体を認識するように発達してきているように見えます。

そして、その最先端付近に現在の人間が存在しているように見えます。

その方向性や働きは、誰のものでもなく、宇宙の働きとして常にある動きです。

その「働き」は、この宇宙ホログラフィーの中の「私」という存在を通しても常に働いています。

一人一人の人間の能力、性格、人間関係、環境は全く違います。その中で、その個人の中での宇宙の働きが動いており、その動きも個人個人で異なってきます。

それを俗的な言葉で言えば「魂」という言葉で言い現わせるかもしれません。

「魂」は、宇宙を動かす働きそのものであり、その機能は、進化と成長を求めているということになります。

安心、安定を求める「私」という自我

そのような前提でありながら、「私」という自我は、生存本能の作用で常に安心と安定を求める性質があります。

しかしながら宇宙の働きである「魂」は、「進化と成長という変化」が性質として埋め込まれています。

そこで「私」という自我(エゴ)と、「魂」の間で拮抗と葛藤が生まれます。

その「魂」と「私」との間で作用している相反する力の摩擦を、「私」は「苦しみ」として認識します。

そして「私」は常に敗北します。

何故なら「私」という自我よりも宇宙の働きである「魂」の作用の方が比べるもなく大きな力だからです。

例えば「私」という自我は、安心と安全を求め続けますが、地球上の生物はすべて「老い」、「死」に向かいます。誰も「死」を止めることはできません。

「デジタル生命になって不死を実現」という話もありますが、そのサーバーが巨大地震、太陽フレア、ポールシフト、巨大津波、気候変動、地球や太陽系、銀河系の寿命で無くなるのは避けられません。

「私」という自我は、絶対に負ける宿命のある勝負をかけて、輝いているのです。

漫画やアニメでは「絶対にあきらめない」というフレーズは美学として扱われていますが、ほどほどにしないと単なる執着となり、自分や他人を崩壊させてしまいます。

「魂」というステージを想定する

私は、「魂」という言葉を扱うことに躊躇があります。

何故なら魂とはスピリチュアル界隈でいつも用いられている言葉ではありますが、よくその作用を見てみると単なるエゴの延長として用いられていることが殆どのように思われるからです。

つまり、「死」という現象を受け入れられないために、霊界や魂という「私」にとって都合の良い現実世界の延長を創造し、永遠の生命という願望を実現させているだけのようにも見えるのです。

(しかし私個人的には、そのよううな霊界や異世界の存在を探求することは非常にワクワクし、興味関心が尽きないテーマなので、大好物なのですが・・・。)

その中で、霊界通信や心霊現象を研究すると個別の魂も、結局大いなる存在に融合され、一つになる宿命があることが分かります。

これは結局、肉体の死と同じような現象にも見えます。肉体が死して、その肉体を構成している元素は、すべて散り散りに離散し、地球上を循環します。

数千年前の釈迦の体を構成している元素は、現在私たち一人一人の体の一部として存在しています。

私たちの体は借り物で、巨大な循環システムの中でたまたま今現在の形をしている希少な出来事であることは、魂の世界でも同じような構造として作用しているように思えます。

魂の設定するシナリオー輪廻からの卒業―

では、魂という視点から眺めると、魂は、「進化と成長という変化」が目的なので、「私」という自我が嫌がるような人生シナリオを、宇宙ホログラフィックで設定するでしょう。

「自我が嫌がる」、ということは、この世界の言葉で表すと、障害、病、死、人間関係での様々な苦しみや、経済的な課題、として現れるかもしれません。

「自我」は「魂」の魂胆を全く想定していなければ、防衛本能機能で常に状況を変えようと戦ったり、逃げたりを繰り返します。

しかし「魂」の観点からだと、戦う、逃げるという課題では、同じステージから変化がないので、たとえ自我の目から上手く逃げおおせたり、勝利したりしても、同じような似た状況をホログラフィック宇宙で投げかけてきます。

永遠に繰り返されるゲームが続きます。

勘のいいひとはお気づきかもしれませんが、これが輪廻転生の正体です。

では、この輪廻を卒業するにはどうするべきか!?

私たちが宇宙ホログラフィックで知っておくべきこと

ここでまとめると、

・一人一人違う唯一性のある「私」という存在は、宇宙ホログラフィックのアバターであり、ゲームのキャラクターと同じようなものなので、本質ではない、ということ。

・宇宙ホログラフィックは「進化と成長という変化」で常に運用されている。それは「私」というアバターももれなくそのプログラムの中で運用されている。

・唯一性である「私」というアバターに「進化と成長という変化」の働きが作用している。そのバラエティのある個々の異なる働きの形(パターン)を「魂」と呼べる。

・「魂」は「進化と成長という変化」を求めているので、「私」にとっての問題や課題は、魂が事前に設定したシナリオである。

・「私」はシナリオが分からないので、防衛本能上、常に葛藤し、苦しむ。

ということが読み取れます。

個々から考えると、問題や課題が生じたときには、そこから逃げよう、戦おうとあらがってもしょうがない部分があるということです。

魂という次元を想定し、自分の魂が「進化と成長という変化」のために設定したシナリオなのだ、と認識し

「これでいいのだ!」と一旦受け入れることで葛藤しなくなります。

そうすると、「戦うか、逃げるか」という二元論の宇宙ホログラフィックから抜け出すきっかけが生まれます。

「戦うか逃げるか」という二元マトリックスは、突き詰めると原因を「私」自身として考えてしまうということです。

しかしながら、「私」とは宇宙ホログラフィックのアバターにしか過ぎず、本体は「魂」なのです。

原因を「私」に還元すると、ますますホログラフィックが強化される、つまり、その問題や課題がホログラフィックの幻想ではなく、より現実感を持ったものとして体感され、葛藤のループにはまりこんでしまいます。

問題や課題が多い場合、自分の魂は、より進化と成長を望んだ勇敢な魂だということになります。

そうやって、自分の本質を認めてあげることで、二元論の葛藤から解放されるきっかけにもなります。

まずは、何はともあれ、宇宙の働きである「魂」のシナリオなのだ!

「これでいいのだ!」という視点を持つことは大切です。

そして、ネガティブな感情―怒り、悲しみ、憎しみ、抑うつーという感情をなかったことにしたり、抑圧したり、無視したりしない、きちんと感じきることがタイツです。

そのようなネガティブな感情は、「私」という肉体を通して表現された宇宙の働きとエネルギーです。

魂がそれを体感したがっていたということです。

「私」とはたんなるアバターであり、幻想です。

怒り、悲しみ、抑うつ、という感情は、「私」のものでなければ「宇宙」のもので、宇宙が怒り、悲しみ、抑うつを表出しています。

その感情を幻想のアバターである相手に投げ返すと、二元論の輪廻の世界に舞い戻ってしまうだけです。

これでいいのだ!と感じきる。

とてもそのエネルギーが巨大すぎて処理できなければ、小出しでも良いのです。

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