書けないという病、ではなく……。
文字を書くのは気持ちがいい。ぶっちゃけ、こんなに楽しい事なんてない。今も唇の回りが痺れ、痙攣するほど気持ちがいい。そして、その反道徳的とも言える快感は、長くは続かない。脳が未だに耐えられない。時としてその状態に入ることが難しい期間に踏み込んだりもする。その時、過去の快感を思い出しては、とっくに味のしなくなった砂っぽいガムみたいな中に、ほんのわずかな甘みの郷愁を探り、ゆっくりと執筆の快感に戻ろうとしたりする。
そして、それが本当の執筆に敵わない事を思い出し、ゴミ箱に頭を突っ込んで吐瀉したりする。何も胃から出てこない事に、さらに涙する。
お目汚し失礼。書けないってのはこんな感じだ。
これから書き連ねていくのは、一人の文字書きのセルフカウンセリング、私個人の自己の再評価ということになる。だから、ここに書いてあることは私の勝手な分析と主張であることを念頭において読んで欲しい。
私は文字を書いている。今こうしてワードに(そう、私はなんとこの文章をワードで執筆しているのだ! 震えるほど恐ろしい事実だ!)書いていることもそうだし、ノートに万年筆でサワリソワリと文字を書き殴っては二重線だらけにしている。あんな小説を書きたい、こんなエッセイをしたためたい、そんな夢をフーセンガムとかみ砕いては膨らまし、また別の発想と混ぜ込んで噛み砕いてゆく。
アウトラインプロセッサなんてものにも手を出してみたり、その話は後にしよう。
私は、ゲームシナリオに向き合いつつ、自分の趣味の文章も書けないなー、書く気が起きないなー、そう思い暫く過ごしていた。その状態にあまり焦りもしない自分が居たり、それをさらに空中から見下ろしている自分が居て、それが何重にもフラクタルに、入れ子構造に、マトリョーシカに続いていたり。無表情なのだ。書けない事にも無感動になって、淡く「ついに才能が枯れたか」なんて他人事の様に思いを馳せていたり。そんな病を続けてしまう。
惨めだ、焦りを感じない自分をただただ惨めに思う。
なぜ書けなくなったのか、そんなのはどうでもいい。
問題を、何故書けていたのかに焦点を当てた。そして私がたどり着いた結論が
「『書けてしまう病』に罹った者は、書けるという異常な状態に陥る」
というものだ。猿が木から降り、現代まで500万年。文字を獲得したのが精々ここ5000年。0.1%以下の時間だ。人間の脳は文字を書けるように出来ていない。なのに書けてしまう病を発症してしまう。そして病というからには治癒するのだ。治癒してしまうのだ。そして人は正常な「書けない」状態に戻る。
人間は、根本的に文字を書くように、文章を書くようには出来ていない。
だからこそ、文字を、文章を書くためには「書けてしまう病」の状態になる必要がある。
書くことを避けるのは実際のところ驚くほど簡単だ。気圧、体調、気分が乗らない、そんなものでいい。文字を書かなくとも何か資料をまとめるだけで「書いた気になる」事で誤魔化してもいい。
本当はそれが書くことを避けているだけであることも、自覚した上で。自分自身の書けない病の存在を主張し始める。
私は、その上で書けない事と向き合うことにした。ある知り合いに、かくかくしかじかを話し、何か打つ手はないか、助けになりそうな考えを教えてもらえないか、お願いしたのだ。
書けない事にある種カジュアルに向き合うエッセイを紹介してもらった。「ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論」という本だった。書けないという悩みを抱えたライターたちの二回の座談会が収録されていた。
私はその座談会を後ろから眺める形で読み込んだ。皆、書けない事に悩んでいた。とても深刻に。
書けない事に悩むのは多くの書き手に共通するものだと知って、私は少し涙を流して、安心した。
何度か読み返した後、私は「書けてしまう病」という結論に到達した。書けてしまうことが、人間には不自然な事なのではないかと。
また、その中でプロットを階層化し、分割、再配置に適したアウトラインプロセッサという類のツールを知った。主にMac向けのものがほとんどではあったが、なんとかWindows向けのものを探し、今回から取り入れてみた。
自分の悩みが書き手の誰しもが陥ることだと分かり、立ち向かった者が居ることに勇気づけられた。このファイルを開き、執筆を開始した時にPCの前に座っていたのは、「書きたいと思う自分」だった。
私は「筆」を握ることに「執」りつかれている。
執筆。筆への妄執。筆への偏執。私は再び「書けてしまう病」へと踏み込もうとしている。何度も筆に惹き寄せられてしまう自分を、呪われていると思うし、そして愛してもいる。
私はまだ筆を折るつもりはない。
しかし、今回はこの辺りで筆を置こうと思う。
ここまで読んでくれて、本当にありがとう。一人の書き手の、下らない愚痴に、弱音に付き合ってくれたことを、本当に感謝している。
書けない事に悩むことになれば、またこの記事を訪れて欲しいし、私自身何度もそうすると思う。きっと私の中に宿った「書けてしまう『魔法』」は、何度だって解けてしまうのだから。
また、その時に会おう。