欧州をめぐる旅(ウィーン編)
今ウィーンに来ている。ヨーロッパは初めてではないが、ドイツ語圏には行ったことがなかったから、ウィーンはもちろん、オーストリアも初めてだ。ドイツ語を始めてン年、ドイツ語圏の国々にいつか行きたいと思いながら、コロナがあったりしてなかなか実行できなかった。今回満を持して、ヨーロッパ旅行と相成った。ここでは書かないが、旅立つ直前に、中止せざるを得ないのではないかと思われるような問題が立ちはだかったが、ここはなんとしてもと踏ん張って敢行した。
ウィーンでの観光と言えば、まず浮かぶのが王宮とシェーンブルン宮殿。そこで、ウィーンについた当日、早速王宮へ向かい、シシィチケットを購入。よくよく見ると、ウィーンの街は、シシィ、シシィと、シシィ尽くしだった。シシィとはもちろん、オーストリアの皇帝ヨーゼフの妃となったエリザベートのことだ。
エリザベートについて最も有名な逸話は、皇帝ヨーゼフと姉ヘレーネの見合いに同行したら、姉ではなく、妹の自分が見染められてしまった、という話だろう。ウィーンのどのガイドブックにも書いてあり、王宮内のシシィ博物館でも強調されていた。毎回その話にふれると、当の見合い相手であるお姉さんのヘレーネが気の毒になった。エリザベートと皇帝の馴れ初めの話題になるたびに自分の名前が持ち出されるなんて。しかも、皇帝は、よりによって妹に夢中になったって、当時の女性としては不名誉極まりないのではなかろうか?せめて、その後、幸せになっていればいいが。(数年後、格下ではあったが、裕福な貴族と結婚したそうだ)。
相手がヘレーネだろうが、エリザベートだろうが、どっちにしろ政略結婚だったことに変わりはない。皇帝もそんなに選り好みしなくたって、と言いたくもなるが、皇帝にはどうしてもエリザベートでなければならない理由があったのだろう。普通だったら許されないことも、皇帝のたっての希望ということで、無理が通ったということも、容易に想像できる。
皇帝は、エリザベートのどこがそんなに気にいったのだろうか?よく言われるのは、まばゆいばかりの美しさ、だ。しかし、当時15歳だった彼女は、まだ子供っぽく、女性の美しさが花開くには早すぎると思うが。
考えられるのは、見合い相手のヘレーネには皇帝に気に入られなければならないという使命感があり、彼はそれを鋭く嗅ぎ取った。母親たちもそのつもりで、どうぞどうぞと娘を差し出して来る。見合い相手ではないエリザベートには、そんなおしつけがましさが当然ながら、一切なかった。つまり、エリザベートは素のままだった。それが皇帝に好ましく思われたんじゃないかな、と勝手に推察する。
皇帝に選ばれたのが。姉ではなく、自分だったと知らされて、エリザベートはどう反応したのか? 逸話には、こう言ったとある。
「あの方を愛せないはずがどうしてありましょう」
そしてわっと泣き出し、
「あの方が皇帝でなかったなら」
と続けた。
それは、皇帝に選ばれたエリザベートの喜びと戸惑いの気持ちを同時に表している、とよく解説される。私は、15歳の少女の悲痛な叫びに聞こえた。皇帝に求愛されたら、突っぱねることなどできない。喜んで受け入れる以外選択肢はないと、公女として生まれた彼女は知っていた。本当は、皇帝のもとに嫁ぎたくなどなかったのだ。それが証拠に、彼女は後に述懐している。
「15歳の子供として売られ、訳のわからない誓約をさせられ、その後30年後悔し、もはや解消する事はできない」と。
「15歳の子供として売られ」という表現、これはどんな言葉より彼女の屈辱的な思いを表しているではないか。
エリザベートは、皇帝に熱烈に愛され、国民に熱狂的に迎えられたということになっているが、果たしてそうだったのだろうか?皆が皇妃に求めたもの、それは彼女の美貌であった。エリザベートもそれは十分すぎるほどわかっていた。
彼女は1日の大半を美貌の維持のために費やした。ある部屋には様々な体操器具が備えてあった。体操選手が使うような懸垂用のつり輪も下がっていた。牛肉を絞る器具もあった。美貌の皇后と称賛された、その裏で、懸垂をしたり、肉は食べず、肉汁だけ飲んだりと、涙ぐましい努力を続けていたのだった。(それ以外にも、生の子牛肉またはイチゴの美顔パック、オリーブ湯浴、冷水浴とマッサージ、フェンシング、乗馬、数時間の散歩等々)。
エリザベートと言えば、豊かな長い髪に星型のダイヤモンドを飾ったあの肖像画を思い出す。公衆の面前では常に美しい姿を見せなければならないと本人は決意し、公衆もそれを期待した。立場が違うとは言え、貫禄たっぷりに、デーンと構えるマリア・テレジアとは大違いだ。
エリザベートは堅苦しい宮廷の暮らしを嫌い、各地を旅したと、どの解説文にも書いてある。しかし、1日の大半を、体型維持を含め、美容のために日課を課したのは、彼女自身だったのだ。美貌の皇后の登場を待ち侘びる民衆。だが彼女はそれをうとましく感じるようになってしまったのか、民衆からの視線を避けるようにウィーンから遠ざかっていく。
失望する国民。追い討ちをかけるように、長男は自殺してしまう。それからというもの、彼女は黒い服しか着ず、顔も扇子や日傘で隠したという。一人息子の自殺による心痛もあっただろう。だが、老いを隠す意図もあったと思う。若い頃、あれほど美貌の王妃と謳われた彼女だ。その衰えは絶対に見せたくはなかったのだろう。
彼女は61歳で暗殺された。その悲劇によって、彼女は伝説となり、無数の物語となって今なお語り継がれている。
母の死を知らされた娘マリー・バレリーの最初の言葉が印象的だった。
「あなたの思い通りになったじゃない。苦しむことなく、長く床に就くこともなく、死ぬことができて」。
突然母親を失って、あまり苦しまず息絶えたのがせめてもの慰めだったのだろうが、これでは、暗殺者に殺されてよかったじゃない、とも聞こえてしまう。母親の一番身近にいたという娘の言葉からも、いかにエリザベートか苦悩に満ちた日々を送っていたかがうかがわれる。
死後、彼女はオーストリアで最も有名な皇后となった。公園に据えられたエリザベート像は、あらゆる重荷、重圧から解放されて穏やかな表情であった。
しかし、つくづく思うのは、エリザベートにしろ、マリー・アントワネットにしろ、皇帝や王だったその夫の方も悲劇的運命を辿ったのはずなのに、その華やかな姿とともに語り継がれるのは、圧倒的に、花として飾られた妻の方だ。ヨーゼフ皇帝もルイ16世も、幾度となくその肖像画を目にしているのだが、どんな風貌だったのか、とんと思い浮かばないのはなぜだろう。