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執筆についての考察
文章を書くことが、私の人生観を変えつつある。
昨日、私の読書遍歴について記事にした。言語化してスクリーン上でその遍歴を見ると、私の人生は本に大きな影響を受けてきたんだな、とあらためて感じた。そして、「執筆遍歴を書いたら何を感じるのだろう?」と考えた。しかし、遍歴と呼べるほどのものはない。
私が読書感想文以上のものを書き始めたのは、高校でアメリカ留学してからだった。日本の学校に通っていたときは、作文の課題もほとんどなかったし、物語を書くこともなかった。俳句は書いたかな?暇なときは、絵を描くか、本を読むか、それくらいしかしてなかった。読書感想文も特に褒められたことはない。
アメリカの高校、大学、大学院で、無数の学術論文やレポートを英語で書いた。感覚的には、「書かされた」という方が正しい。専攻が芸術系だったので、文学、アート、建築、歴史が主なテーマだった。論文なので、当たり前だがリサーチしたり、文献を正しく引用する必要がある。そして、定型の書き方がある。こんな構成だ。
イントロ
ボディ①
ボディ②
ボディ③
結論
参考文献
イントロと結論の部分は、ある程度書き方が決まっている。各ボディ内にもイントロ、ボディ、結論がある。
何が言いたいかというと、アウトラインが作りやすく、必要な情報を埋めていくことで論文が形になるのだ。ある意味、機械的でシンプルだが、その分、テーマや論点を明確にし、論理的に書くことが求められる。
レポートや論文はいつも高評価だった。しかし、締切があり、評価もつき、卒業や自分の将来がかかっていると思うと、「書いていて楽しい!」と感じることはなかった。むしろ、「書かなければいけない」という強いストレスで苦しかった。それでも、何とか卒論も完成させ、卒業できた。
執筆が必要な仕事はしていなかったので、ごく稀に翻訳をするくらいで、めっきり書かなくなった。
それが十年以上続いた。ブログを書こうか考えていた時期もある。でも、何について何語で書こうか、収益化できるか、など、考え始めると行動できなかった。とりあえず何か書こう、と思ってエッセイなどを書こうとしてもまとまらず。
自分が小説を書くことは考えたことがなかった。自分にそんな創造性があるなんて思ったこともなかった。
それなのに、2023年春に、何か急に思いついて小説を書こうとした。でも、書き散らしただけで、形にならなかった。
そして今年の夏。気分転換に文章を書こうと思い、書き始めたら止まらなくなった。一ヶ月で短編三作の第一稿目を書き上げた。プラスもう二作も途中まで書いた。
それが素晴らしい出来だ、と言いたいのではない。でも一応、小説として形を成していた。それが嬉しかったし、経験したことのないような達成感を感じた。
創作活動でフローを感じたのは初めてだった。書いて、書いて、書いて、書いて。言葉が湧いて出てくるようだった。頭がクリアだった。楽しく、充実していて、自由だった。最高に気分が良かった。
写真でもなく、絵画でもなく、執筆でフローを感じるなんて、自分でも信じられなかった。一体何が起こっているのだろうと思った。
「この歳になって、こんな体験をすることもあるんだ。人生ってわからないものだな」と感動した。
いつもこんなフロー体験ができるとは思っていないが、一度でも体験できて良かった。大袈裟かもしれないが、芸術の本質を垣間見たような気がした。
私の執筆活動がどう進んでいくのかは、わからない。でも、これからも書き続けていきたい。ただ純粋に、楽しいことを継続したい。