人間は、どのような生き物なのか-人工知能が桜の美しさにため息をつく日
人を人たらしめているものとは、一体なんなのだろうか。
人工知能(AI: Artificial Intelligence)の急激な台頭が叫ばれて久しい。
2029年には、汎用人工知能が人類の知能を超え、2045年には、$1,000で手に入るコンピュータの演算能力が全人類のそれに等しくなることで、技術的特異点=Singularityを迎えるという。
つまりその頃には、人間の知能や生命としてのあり方が、指数関数的に進化を続けるテクノロジーの基盤に統合されるというのだ。
人類史を紐解けば、人間が可能にした技術進化がどれほど凄まじいものかがよく理解できる。
人類誕生以降ほとんど横ばいだったテクノロジーの進歩は、西暦1,400年-1,800年頃を境に爆発的に加速し、パラダイムシフトのスピードを完全に書き換えている。
人類を超越する知性の誕生は、まさに新たなパラダイムの、どころか新たな文明の出現と言っていい。
当然、そんなAIの出現は福音でもあり、人類という種に対する破滅の予言でもある。
2015年にGlobal Challenges Foundationが出版したTwelve risks that threaten human civilisationも、人工知能を文明破壊の12のリスクの一つに数えている。
AIは、極度の気候変化や生態系の崩壊といった他の11のリスクの解決策となる可能性を秘めつつも、やはり手放しにはできない明らかな危険性を孕んでいることは間違いない。
もちろん、ここで「AIは規制するべきだ!」と主張する気は無い。
しかし、共存のためには慎重な考慮が必要だろう。
一方で、人工知能との共存を想像することは、別の思索も呼ぶ。
つまり、「人間とは何か」-我々はどのような生き物か、という問いだ。
人らしい生き方とは何か。
人にしか備わっていないものとは何か。
人にしかできないこととは何か。
人がやるべきこととは何か。
機械にできないこととは何か。
機械に与えられないものとは何か。
機械に譲ってはならないものとは何か。
人を人たらしめているものの一つに、言語があると言われる。
近年では動物や昆虫の「言語」の研究も進み、それらの生物が、一般に考えられているよりも明らかに複雑なコミュニケーションを行なっていることが指摘されている。
しかし、それらの研究を以ってしても、人間言語に匹敵するシステムを備えたコミュニケーション手段は未だ発見されていない。
さて、人工知能は、果たして人間言語を獲得することができるのか。
曰く、人間言語は下記の5点において固有の特性を備えている、ないし他のそれに対して圧倒的に秀でているという。
Discreteness; Interchangeability; Productivity; Arbitrariness; Displacement
の5つだ。
また、Noam Chomskyによれば、人間言語は2つの基本原理に分けることができるという。
1つは外在化(音声化)のための「感覚運動インターフェイス」、もう1つは認知的過程のための「概念インターフェイス」だ。
そしてChomskyは、後者を言語の中核的特性と指摘する。
つまり、言語は本質的に「思考言語」であるというということだ。
彼に従うならば、外的存在とのやりとりのためのコミュニケーションは言語にとって副次的な機能に過ぎず、言語とは、外在化するなんらかの形式(e.g. 音)を備えた「普遍的な意味そのもの」であるということができる。
よって、人間言語を獲得するということは、(1) 意味の認知を可能にする「概念インターフェイス」と、(2) 階層的に構造化された表現の無限の配列を生成することで意味を外在化させる「感覚運動インターフェイス」の双方の獲得を意味する。
現在の人工知能は、少なくとも多言語間の機械的翻訳において、一定の正確性をすでに有しているといっていい。
観光程度の目的であれば、十分使用に耐えうる。
一方で、機械翻訳が行う言語活動は、おそらく特定の音声パターン(=外在形式)によって構成された意味を認知し、他の外在形式へと再構築するだけの能動性を欠いたものであると推測できるから、(1)・(2)のそれぞれのインターフェースをまだ半分も満たしていない。
積極的な意味の思考・認知を行なっていないし、とりわけ人間言語の重要な要素たるProductivity=「有限の言語システムにより、無限の幅で意味を生成できる能力」を決定的に欠いている。
したがって、機械翻訳の人工知能は人間言語を話してはいるが、"まだ"人間らしい言語機能を獲得したわけでは無い。
(ただし、僕が機械翻訳の仕組みに造詣が深く無いため、間違った論を展開している可能性は大いにありうる)
Siriのような人工知能による会話機能も、基本的に最小限の言葉を使用した、特的のパターンに沿った受動的なやりとり以上のことを行わない以上、やはりとりわけProductivityという観点で不完全性が認められる。
では、人工知能はProductivityを獲得できるのか。
その問いに対する答えを僕は持ち合わせていないが、人工知能がProductivityを獲得する上での障壁は、大別して5つあると思われる。
(1) 人工知能が、Phatic Communication、ないし「会話を楽しむ」という概念を持つこと
(2) 人工知能が、能動的に会話の目的を設定し、initiateする能力を持つこと
(3) 言語の表面的な意味でなく、コンテクストを把握した上でのmetamessageを認知・生成・伝達できるようになること
(4) 人工知能が、ある特定の意味伝達状況において、複数の選択肢を思考し、かつ効率性以外を基準に会話形式を判断できるようになること
そして決定的なのが、
(5) ある状況に創造的・情緒的に意味を見出し、表現したいという欲求を持つこと
この辺りが、鍵だろうか。
人工知能と人類が、仮に現代的な意味で「人間的な社会を構築し、共生する」ことを望むとしたら、人工知能が人間言語を獲得することは必須だろう。
しかし、人工知能がそれを手に入れることで、人類は再び、科学によって傲慢な自己愛を剥奪されるかもしれない。
(Cf. フロイト『精神分析の難解さのひとつの原因について』)
もし仮に、言語が人間を人間たらしめているものだとしたら、人間が唯一の人類で無くなるのは、人工知能が「今日も桜が綺麗ですね」とため息をついた日なのかもしれない。
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