「マンキン 都立の底力」2年・溝邊岳都
みなさんおはようございます。
昨年途中入部し、特に同期の幹部にいじられている溝邊岳都と申します。一生懸命文章を書くので、時間があれば見てください。
おそらく小学校1年生の時、地元のクラブチームの練習に参加したときに初めてボールを触りました。じっとしていることが嫌いで常に動いていたいタイプだったので、サッカーは楽しかったです。流れでそのクラブに入りましたが、自分はサッカーをしに行くのではなく友達と遊びに行く感覚でした。真面目に練習をせず、木登りなどをして遊んでいたらだんだん周りは上手くなっていて空いているポジションがゴールキーパーしかありませんでした。そのまま、なんとなくの流れでゴールキーパーに定着していました。自分にとってはゴールキーパーはとにかく楽でした。周りが上手かったので立っているだけで板橋区の中で良い成績を何度も残せました。
高学年になるにつれてだんだんフィールドもやってみたいという感情が生まれ、中学校のサッカー部ではフィールドをやり始めました。6年間キーパーをやっていたのでまともな動き方も分からず、まず基礎技術が圧倒的に低かったのでなんとか練習しまくって試合に出場できるレベルまでもっていきました。中学の間はとにかく練習したという記憶が残っています。
そして、自分はサッカーが強い高校に行ったら試合に出場できないと思い、あまり盛んにサッカーをやらないところが良いと考え、都立竹早高校に進学しました。竹早は部活というよりも勉強を重視する高校で、都内からサッカーが上手い人が集まるという環境ではありませんでした。高校生の自分にとってはちょうど良いレベルでした。サッカー弱小校ではありましたが練習は週に6日あり、レベルは高くないですが、緩すぎるということもなくサッカーを楽しむことができました。高校生辺りから自分はサッカーがとても楽しい、サッカーが好きだっていうことを発見しました。こんな自分でしたが、高校ではキャプテンをやらせていただきました。同期の中で1番やる気があったからだと思います。当時は練習で手を抜くことが大嫌いで、毎回の練習をマンキンでやっていました。それを続けていくうちに、もっと高いレベルでサッカーをしてみたいと思い始めました。
竹早では3年生になって引退するタイミングが2回あります。1度目は春のインターハイの後、そして2度目は夏の選手権の後です。強豪校だったら最後までやるのが当たり前だと思いますが、勉強メインということもあって3年の最後まで残ったのは自分を含めて13人中3人しかいませんでした。自分は中途半端な形で辞めるのが嫌だったし、なによりサッカーが好きだったので最後まで続けました。結局、8月の終わり頃に引退して受験勉強を始めました。あまり面白くないサッカー人生でしたが、とにかくサッカーが好きでした。
そして、上智大学に進学することになりました。上智大学体育会サッカー部にセレクションなしで入れることは知っていました。1年の4月から入部しようと思っていましたが、練習に行こうと決めていた日に緊急事態宣言が発令されていて練習がなくなってしまいました。そこでサッカー部には縁がなかったと自分で思うようにして大学生活を過ごしていました。しかし、心の底では自分より上手い人たちとやってみたいという思いが強くありました。そのため、上智大学体育会サッカー部に途中入部しました。
今シーズンの目標ですが、現在自分は上智大学体育会サッカー部の1番下の位置にいるので少しずつ上にいきたいと思います。ですが、1番大事にしたいことはサッカーを楽しむということです。好きなサッカーを嫌いになるために部活に入ったわけではないので、マンキンで戦いながらサッカーを楽しみたいです。そして数少ない都立として、都立の底力を見せてやります。上智大学体育会サッカー部には優しい同期や面白い先輩がたくさんいます。自分もだんだん馴染めてきましたが、まだまだ足りないと思うので、みなさんこれからもよろしくお願いします。
次は一度も話したことがありませんが、鉄人みたいな雰囲気を醸し出している宮原 正弥くんです。