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「サッカー、ありがとう。SOCCER,THANK YOU!」4年・柏崎 友哉

上智大学体育会サッカー部を日頃より応援してくださりありがとうございます。文学部新聞学科4年、柏﨑 友哉です。
 
航太、紹介ありがとう。航太との一番の思い出はローヴァーズの帰りに車で一緒に帰ったことかな。航太は4年間一緒にいてもまだ全くつかめません。毎朝、始発の新幹線ではるばる練習に通い人一倍つらい思いをしていた航太は部活を引退し、練習がなくなった途端に西荻窪に一人暮らしを始めるそうです。あと、大学院合格おめでとう。
 
 
引退してサッカーから離れ、3週間が経とうとしている。そろそろ南砂町駅から徒歩20分、新砂運動場が恋しくなってきた。少し前までは引退までの日数をカウントダウンして引退を待ちわびていた自分も、3週間もサッカーから離れると気が付いたらサッカーがしたくなってしまう。引退とはそういうものだろう。
 
これまで4回程度書いてきたブログもこれで最後だ。ブログを書くたびに「書くことないな」とか、「引退ブログだけでいいわ」なんて同期(特に匡祐)が愚痴っていたが、ついに引退ブログを書く時期になってしまった。今回ばかりは時間をかけて自分の4年間の想いを言語化しようと頑張った。このブログは後輩たちに向けた教訓なんて大層なものじゃない。自分のために、自分に向けて書いたブログだ。その点だけ理解して温かく読み進めてほしい。
 
 
この4年間は、長いようで本当にあっという間だった。
高校時代の先輩であり上智のレジェンド、チャナくんこと松村 勇人先輩の後押しもあり、サッカー部への入部は大学に入る前から決めていた。強豪校出身でもなく、地区トップリーグを主戦場に闘っていた自分がどこまで通用するのか、限界を見てみたいと素直に思った。
 
1年目。周りの強豪校ブランドにビビりながらも、毎日が新鮮で刺激的な毎日を過ごしていた。また、意外と通用する所もあるなと思ったのが正直なところだった。基本的にはCチームを主戦場にプレーしていたが、たまーに上カテゴリーに行くこともあり、ギラギラしていた1年目だった。そんなギラギラした1年目は、周りからの評価にも敏感だった。自己評価に反して低い評価を受け、腐った時期もあった。横国戦では40メートルの距離から超絶ゴラッソを決め、2G1Aの結果を残し、その月末からの金沢合宿には間違いなく行けることを確信した。しかし、合宿1週間前、自分の名前は金沢メンバーには載っていなかった。そこから自分は不貞腐れた。もちろん評価は地に落ちた。小石川運動場での紅白戦で1分も試合に出してもらえなかった時、大輔君(19年卒)から慰められて本当に泣きそうになったことを今でも覚えている。
 
2年目。コロナでサッカーが出来なかった時間は良い意味でも悪い意味でも自分の心を切り替えるきっかけになった。アメフト部で活躍する高校時代の友人に誘われ筋トレを始め、体は、みるみる大きくなり、筋トレに目覚めた。この頃から、周りからの評価はあまり気にせず、自分の敵は自分だと言い聞かせた。
 
3年目、アメリカ・テキサス州に留学した。サッカー部を離れることで、よりサッカーの素晴らしさを強く感じることになった。言葉を巧みに操れない自分にとって、サッカーが一番の共通言語だった。なんてサッカーは素晴らしいものなんだ、「サッカーありがとう!」と心から感謝した。
 
留学から帰ってきた4年目、正直一番苦しくてつらいシーズンだった。帰国後、やるからには都リーグで活躍したいと心に誓って部の活動に戻ったが、現実は甘くなかった。怪我での長期離脱。それも帰国後1発目の試合で全治6ヶ月の怪我をした。そのあとも頚椎捻挫や脳震盪などが重なり、最終的に復帰できたのは引退の1か月前だった。(同期からは怪我期間、なんでそんなに生き生きして楽しそうなの?と毎日いじられていたが、実は大変苦しんでました。)
 
あまりにも短すぎるシーズンだった。蓋を開けてみれば、都リーグどころかJr.リーグすらメンバー入りできない、情けない結果だった。
 
それでも後悔はない。最後の1ヶ月間は自分のできることは全て尽くしたし、その過程は自分にとって本当に最高な時間だった。
 
最後の1カ月、全力でサッカーに向き合うことができたのは間違いなく色々な人のサポートがあったからだ。自分の怪我に向き合って色々なメニューを考えてくれた隼太郎。頚椎捻挫した時すごく心配してくれたスポンサーの四ツ谷駅前治療院。サッカーが出来ない苦しい時期を一緒に乗り越えたきょうすけ。などなど。
それに復帰戦として自分が20分間出場したサタデーリーグを、遅くまで残ってみてくれた同期のみんな。本当に自分は最高の仲間に助けられたと思う1年間だった。
 
見て分かる通り、4年間のサッカー部での活動で目に見えて得られたもの、残せたものは1つもない。それでも全力でサッカーに取り組むプロセスとその過程で支え合った仲間が私にとっては一番の宝物だと思っている。
 
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引退後。
サッカーから離れて感じるのは、やっぱり俺はサッカーが好きだということ。月並みな言葉だけど、やっぱりそれに尽きる。
サッカーが好きだから、17年間サッカーにほとんどの時間を費やしてきた。到底プロを目指すことなんて出来ない下手くそな選手だけど、本気でするサッカーが大好きだ。
 
こんなことを言うと同期からはきっと「お前が言うな」「そんな感情あったんだ」などと言われそうだが、正直心外である。これでも高校時代はキャプテンとして「一番サッカー愛が強い先輩」というアンケートで堂々の1位を獲得した実績もある。
 
自分は普段、後悔することがほとんどない。大学受験でも、留学でも、なんでもこうしとけばよかったと思うことはほとんどない。常に自分の選択を肯定し続けてきた。でも、サッカーだけは、“これでよかったのか?”と少し思ってしまう。それは、4年間を振り返った時も、一回の練習が終わった時も、紅白戦を終えた時も同じように思う。正直、サッカーに完璧なんてない。何時間練習しても、どれだけ歯を食いしばって頑張っても、感じるのは“もっとやれたな”という想い。この感情が生まれるのはサッカーをしている時だけだ。だからサッカーが楽しくてやめられなかったのかもしれない。
 
22年間、サッカーと一緒に歩んできた自分からサッカーをとったら何が残るのか。自分のアイデンティティの軸であるサッカーで負けるのが大嫌いだった。スタメンを言い渡される瞬間はいつでもドキドキするし、自分の名前が呼ばれなければ本当に悔しかった。だから、その思いをしないように、途中から自分に言い訳をした。自分は復帰したばかりだから。留学でしばらくいなかったから。ずっと怪我をしていたから。強豪校出身じゃないから。プロにならないから。大学を卒業したらサッカーなんてしないから。競争に負けたとき用の保険が頭の片隅にずっと残っていた。全力でサッカーをして、サッカーを楽しめれば試合に出れなくてもいいじゃん、と言い聞かせていた。だから、自分はあまり本気じゃないように振舞った。努力を見せたら負けたときに悔しいから。恥ずかしいから。
 
だけど、最後の1カ月はそのつまらない言い訳を捨ててみた。だから最後、Jr.リーグのメンバーに自分の名前が呼ばれなかった時、めちゃくちゃ悔しかった。Jr.最終戦、VS朝鮮大をスタンドから見たとき、めちゃくちゃ悔しかった。理玖が点を決めたとき、みんなが喜んでいる中、自分だけは喜べなかった。試合の後の飲み会も、この日だけは到底行く気持ちになれなかった。長南からは「友哉が落ち込んでるの珍しいな」なんて言われたけど、自分でもそんな気分になるのは本当に久しぶりだった。“もっとやれたな”という想いでまた大学サッカーが幕を閉じた。だけど、後悔はない。きっとそれが俺にとってのサッカーなんだと思う。
 
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最後にこの場を借りて、感謝の気持ちを伝えさせてください。
 
先輩へ
まずは自分をサッカー部に誘ってくれたチャナ君、チャナ君のおかげで本当に充実した4年間を送ることが出来ました。
先輩は自分にとっていつもかっこいい存在で、近くにいてくれる存在で、なんでもフラットに相談できる存在で。それでいて、よくいじってくれて、とても可愛がってもらいました。不貞腐れている時期にも絡んでくれた大輔君やイヒロ君、高級焼き肉をおごってくれる小尾君。ケツトレの師匠、古宮君。コンビニでたくさんお世話になった、かじこうくん。大好きなUT。個人名をあげたら本当にきりがないほどたくさんの先輩のおかげで4年間最高な時間を過ごすことが出来ました。ありがとうございます!!!
後輩へ
この前ゆうきには「友哉くんみたいにはならないようにします」って冗談か本気か分かんないこと言われたけど、本当にそうならないように頑張ってほしい。後輩のみんなは真面目でサッカーも上手いから大丈夫だと思うけど、陽太あたりは心配です。危なくなったら飯誘ってくれ!
 
学生監督・トレーナー・マネージャーへ
南出をはじめとして、選手じゃなく、この組織のために尽くしてくれる人の存在は本当に大きかった。
特に隼太郎は選手をやめてトレーナーになる決断をして、誰よりもチームのことを考えてくれてありがとう。小熊は実は高校からの友達で、大学で一緒にサッカーできるってなったときは素直に嬉しかった。今年は学生監督として本当に下カテをまとめてくれて、心強かった。来年も期待してます。前田さんにはとてもお世話になりました。原因不明の怪我に対して親身にケアをしてくれてすごく助かりました。
マネージャーは完璧なテーピングを毎回巻いてくれて本当に助かりました。ありがとう。
 
こうして選手以外の立場のみんながいるおかげでこの部は成り立ってると思います。これからも上智を宜しくお願いします。
 
高校サッカー部の同期へ
なんだかんだみんな自分の活動を追ってくれて、応援してくれたことは励みになりました。特に人見(学習院大学ゴールキーパー)と最後に一緒に試合することを一つの目標として頑張ってこれた。アメフト部のみんなも筋トレをイチから教えてくれてありがとう。
恐らくこのブログも、LINEに共有されていじられるはずなので、まずはいいねを押してから、いじってください。
 
同期のみんなへ
サッカーに対して常に全力でストイックなみんなを本当に尊敬してる。特にたいしんはサッカーで妥協してるところを見たことがないくらいストイックで、常にたいしんからは刺激を受けてた。(ここで書くとすごい喜びそうだからあえて。) 1年の頃一緒に苦しい時間を過ごした波崎メンバー。試合に出れる時間は少なくて、審判やらされることも多かった。だけど、試合後に一緒に温泉に行ったり、終電を逃して新宿からテツの家まで歩いたり、その時間が本当に楽しくて、お前らがいなかったら確実に4年間やってこれなかったと思う。本当にありがとう。
DL組。6ヶ月の怪我期間をこんなにやってこれたのはみんなのおかげ。練習に行くのが楽しかったし、みんなとケツを追い込みながら「キツイキツイ」言う時間が最高に好きだった。
テツは4年間多分一番一緒にいて、今でもよくわかんないところたくさんあるけど、いろいろありがとう。大陽は一緒にいることが多くて基本はくだらない話しかしないけど、近くにプロを目指して頑張ってるのは強い刺激だった。マサは俺のことを南砂町-新砂運動場の足としか思っていないことはさておき、1年からずっと一緒にいて、いろいろと支えになってた。しんじはウーバーがんばれ。って感じで挙げてたらきりがないけど、ほんとにみんなのことが大好きで尊敬してます。
 
あとみんな、留学から帰ってきた自分を迎え入れてくれてありがとう。大好きな同期26人(+6人)と一緒にサッカーできて本当に幸せでした。
 
そして家族へ
まずは小さい頃自分にサッカーをさせてくれてありがとう。おかげでたくさんのかけがえのない経験と友達が出来ました。毎日家を出るたびに「友達いるの?友達作りなさい」と心配してくる母親。こんなにも素晴らしい仲間がいるので心配しなくても大丈夫です!
家でサッカーの話をしたことはほとんどないけど、毎日ご飯を作ってくれて、時に洗濯までしてくれて、サポートをしてくれたこと、本当に感謝しています。ありがとう。
怪我で救急車で運ばれた時、お節介で心配性な母親は心配して“もうサッカーなんてやめろ”と言われ、言い合いになったこともあったけれど、最後まで無事にやり切ることが出来ました。今までたくさん迷惑・心配かけました。
 
本当に17年間、両親のサポートがなければサッカーは続けられませんでした。ありがとう。
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この辺りで最後のブログを締めたいと思います。少しまとまりがない文章になってしまったけれど、それだけ文章で言い表すには難しすぎる4年間だったことを伝えたいです。
皆様、最後まで読んでくれてありがとうございます!
 
次のブログを担当してくれるのは、同じ地元、大田区出身で家が近い、ドリブルでシュート決め丸こと神田 辰丸。サッカーの技術は上智でピカイチ。最近は女の子へのドリブルも好調という噂を耳にします。上智のファンタジスタとして1年から都リーグの舞台で活躍してきた辰丸は何を語ってくれるのでしょうか。引退しても地元でサッカーしよう!

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