家族ずかんVol.9(エデュる、学びを遊ぶ)
いつからだろう。学び続けるのにモチベーションを設定しないといけなくなったのは。
義務感より圧倒的なワクワク感。それを共有することすらもったいないと思っていた。
何時からか、ギチギチなスケジュールを考え、やることを項目立て、チェックをして達成感をえる構造に変わりつつある。
やり切ってすごい。完全にタスク化された方が量を把握できるし、こなせるような気もするけれど。継続力がやっぱり大事だから。
そこには、「しんどいこと」っていう意味が暗に込められてて。いや、もちろん継続はしんどいことだから。
試験勉強であれば辛いこともあるし、逃げたいこともある。やる内容や範囲も、つぶさないといけない。学生時代の合言葉。
「何周まわした?」
その問題(集)を何回繰り返しやったか、ということ。これが、授業の書き起こしにも転用され、試験前は「(書き起こしを)何周回した?」に変わる(笑)。書き起こし文化も凄まじかった。おかげで今はやれない気がする。義務的にやっていたからか。
ただ英語を読んだり、日記書いたり、絵を描いたり、文章を書いたりしていて。「偉いね、すごいね」と言われることに躊躇さえ感じて、ただ「遊んで」いたことが「ミッション」になっている。
なんで、こんなことを考え始めたかというと。
息子が、時間の合間を見ては絵を描いている。
それがすごい枚数で、1日に。コピー用紙なくなるやん、ってくらい描く。こんな事書くと、すごい才能あるみたいだけど、絵自体は無茶苦茶で大体がゴジラとミニラとメカゴジラ。iPadで調べたり、図鑑を見たりしながら、本当に「隙アラバ描く!」みたいな感じ。
描いている時は、一人の部屋か離れた場所に行きたがる。見られたくないようで。没入したい感じ。あとでそーっと見てみると、最近はセリフも追加されるようになってきた。
そっとしておくと、時々唐突な質問が出てくる。
「砂漠にミニラ連れて行っていい?」
う、うん。地図を渡してみる、この辺が砂漠だよ。
これを学びや学習と呼んでいいのか、よく分からないけど世界は広がっている気がする。これ、内発性純度120パーセントくらい。
これを基礎的学習とつなげるのが、私の手腕であるけれど、あまりに見えすいたことをすると、純度が下がる。
「待て」
そっとドアから覗いてみる。背中から何か出ているみたいに夢中だ。
モチベーションの種は、彼の中にある。何時間も細かく歪んだ線を描く、あの目と背中が持っているパワーはやっぱりすごい。
私が見失っているものを、息子が持っている。息子から学ぶ今日この頃。
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