幸せはまるでシャボン玉
自分の存在している意味。
それを感じたとき、私は苦しいくらいに幸せで胸がいっぱいになる。
幸せはまるでシャボン玉みたいだな。
なんて詩的なことを言ってみる。
綺麗で、ワクワクして、いくつも生み出すことができる。自分だけじゃなくて、誰かが生み出すことも。中身はなんてことない、目の前にあるのに普段は存在感のない空気。だけど、一瞬できらきらしたものに変わる。いつ消えるかわからない。どんなに小さなものでも触れてしまえば一瞬で消えてしまう。そんな儚い存在。すぐに消えてしまうけれど、そこにシャボン玉は浮かんでいた。その事実は消えないし、記憶はいつまでもきらきらしている。
このnoteを書き始めたとき、「幸せはまるでシャボン玉」だなんてこれっぽっちも思っていなかったんだけれど、ふと浮かんできた気持ちをそのまま書き出してみると、私の「幸せ」のイメージにぴったりと当てはまっていた。
先日の私は、一日中心がぽかぽかで、まさに「幸せ」な日だった。
そして、今日も温かくて心強い言葉をたくさんいただいて「幸せ」に溢れている。
諸事情で授業を休むことになり、先生に連絡すると私のためだけにオンラインで教室と繋いでくれるという。絶対大変だし、手間がかかるのに、たった1人のためだけに快く提案してくれたこと。
グループワーク。教室の数人とオンラインの私。やりとりするの難しいじゃない?申し訳ないなって思っていたのだけど、わざわざみんなが映るようにpcを置いてくれたり、定期的に話を振ってくれたり、ちょっとふざけてくれたり笑。初めて会話する子もいたのに、みんなすごく優しかったこと。
最近入り浸っている朝活コミュニティの作業部。慣れてきてうるさくなってきた私の些細な一言を拾ってくれて使ってくれたこと。
先日に限らず、朝活のコミュニティで、私のことを気にかけてくれる人、応援してくれる人、話を聞いてくれる人、1対1でも雑談してくれる人、ネガティブを受け止めてくれる人、お祝いしてくれる人がいて、居場所があると感じられること。
私がいる意味を感じられて、私はここにいていいんだって思えて、私は人に恵まれた幸せ者だなあって思う。苦しいくらいに幸せで胸がいっぱいになる。でも、ふっと消えてしまいそうで、どこか寂しさもある。その寂しさや儚さも含めて「幸せ」と呼ぶのかもしれない。
翌日、翌々日。そこに幸せがあった記憶ははっきりと残っているのに、目の前に幸せがあったときとはちょこっと違う気持ちになる。目の前でシャボン玉が浮かんでいるのを見るときと、写真に収められた綺麗なシャボン玉を見るときが違うように。まるで思い出となったかのように。
二度と訪れない今を、一瞬一瞬の幸せをかみしめて生きていきたい。
では、素敵な1日になりますように。