見出し画像

A・H・Z・カーの小説「誰でもない男の裁判」を読む

「……わたしをして言わしむるならば、罪というものはわれわれがもてるあらゆるものの中で、最も誤解されている。罪だろうが他の何だろうが、面倒をひきおこすのは罪そのものではなくして、すべて過度ということに原因があるのであります。真の禍の源は、普通の、適度の罪を伴った生活よりも、むしろ過度に道徳的であろうとするところにあるのであります……」

A・H・Z・カー『誰でもない男の裁判』晶文社, 2004. p.81.

異色のミステリー作家A・H・Z・カーによる小説「誰でもない男の裁判(THe Trial of John Nobody)」からの一節。アルバート・H・ゾラトコフ・カー(Albert H. Zolatkoff Carr, 1902 - 1971 )は、アメリカの作家・政治経済学者。F・D・ローズヴェルト、トルーマン大統領の補佐官をつとめ、実業界でも大きな成功を収めた。ミステリー作家としては、1950-60年代に、〈エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)〉誌に発表した短編で高い評価を獲得、『妖術師の島』(1971)でMWA賞(エドガー賞)最優秀第一長編賞を受賞した。他に政治・経済関係の多くの著作がある。

「誰でもない男の裁判」は、ある無神論的な作家が講演中に殺されてしまい、その犯人が「神の声に従って撃った」と供述するその裁判をめぐるものである。作家は「罪とは神の罰ではなく、過度に道徳的であろうとすることによる」と講演する。そして「さあこい、神さま、おれを殺してみろ」と神に対して挑発的なことを言った直後に実際に銃撃され殺されてしまう。彼を撃ったのは自分の名前や過去についての記憶がない、そして使った銃についてどこで手に入れたかの記憶もないという「John Nobody(名無しの権兵衛)」による犯行だった。この事件は大きく報道され、世間も陪審員たちも、実際に犯人は神の啓示を受けていたのではないかという犯人擁護の立場に傾いていくのだったが……。

この作品の中心となるアイデアは、1930年代にノーベル賞作家のシンクレア・ルイスが行った講演の記事をカーが読んだときにひらめいたものだという。その講演でルイスは「もし自分が間違っていたら、その鉄槌がたちどころにくだって、死ぬだろう」と言ったのだが、カーは、もしそいういうことを言った人が、その途端に死んでしまったらどうだろうと考えたのだという。それはただの思いつきだったが、15年後に彼がこのミステリー小説を書く際に再び浮上してきたのだった。そしてこの小説はEQMMコンテストで第二席を受賞する。カーの短編の中でも極めて評価の高い一作である。

殺人事件において「神の声」が争点となること自体、日本人の私たちには考えにくいことであるかもしれない。しかしアメリカは宗教的な風土の強い国家であり、大統領演説でも「神のご加護」が頻繁に口にされることから考えても、荒唐無稽な話ではなく、むしろ真実味のある話になっているように思える。例えば、アメリカ大統領選挙で大きな争点となる妊娠中絶の問題は、キリスト教的な背景を抜きには考えられない。アメリカ国民の4分の1にのぼると言われる「福音派」は、聖書に書かれていることを厳格に守り、妊娠中絶は神の教えに反するとして反対している。近年、全米のいくつかの州で妊娠中絶を禁止したり、制限したりする法律が相次いで成立しており、「中絶は女性の権利だ」と訴える人たちとの間でアメリカは二分されている。

このカーの小説は、そうしたアメリカ国民の心の奥に今もなお強く残る宗教心や神の問題、原罪・罪の意識、そして犯罪と宗教の関係などについてフィクションという形で見事に描いてみせた、非常に真実味のある小説となっている。そして、ミステリー小説としてのエンターテインメント性もしっかりと持ち合わせている。人間心理の深みを描きつつ、フィクションとリアリティの間で見事にバランスをとるカーの筆力は、彼のキャリアが職業小説家ではなく、むしろ主に実業家・政治学者であったというところにも由来しているのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!