生活の全体性の回復としての〈民藝〉——鞍田崇氏の「自己化」と「他力」の思想
本書『〈民藝〉のレッスン:つたなさの技法』は、哲学者の鞍田崇(くらた たかし)氏による民藝を新たな眼差しで捉えた一冊。鞍田氏は1970年、兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。著作に『民藝のインティマシー 「いとおしさ」をデザインする』(明治大学出版会)。2014年より明治大学理工学部准教授を務める。民藝に関しては、高木崇雄氏の書籍についての過去記事も参考のこと(「「時間」が溶けこんだ「工藝的なる声」——高木崇雄氏『わかりやすい民藝』を読む」)。
民藝がいま、新たに注目されているのはなぜか。それは現代の「豊かさ」をどこに求めるのかという、昨今の暮らしへの関心と関係している。それをあえて言葉にすると「つたなさの技法」ではないかと鞍田氏はいう。与えられたレールの上をスマートに生きることよりも、ぎこちなくも一つ一つの人や物との出会いを自分たちの感性で創造していくこと。そうした、自らのつたなさを肯定してくれるのが民藝だという。
そこでポイントになるのは「自己化」である。自分の暮らし、自分の日常の全体をある種のバランスのもとで把握できる眼の力。全体的な文脈に対する見通しの鋭さが思想として根底にあると同時に、それを個人化していくことに意義がある。かつて茶道において、千利休の眼がある種の「型」になってしまったように、柳宗悦の眼だけが正しいとなってしまうと個人化はできない。本当はそれを自分のものにしていく作業、つまり「自己化」していく作業がポイントである。経験を通してどこまで血肉化していくか、それが大事であると鞍田氏はいう。
「使い続けるにつれて美しくなる」という思想が民藝にはある。柳はそれを「用の美」という言葉であらわした。従来の美しさの価値基準の中で欠けていたものとして、用の世界の意義を唱えたわけである。そこにはもっと広い意味で、美だけでなく、様々な意味での生活の全体性の回復というのが民藝の「用の美」には込められているという。生活あるいは人間存在の全体性の回復である。用の美とは、使うことと見ることの一体化、全体性の回復ということができるのではないか。
この「用の美」は元をたどれば茶道において体系化されたものである。しかしそれは茶室という非日常的な空間に閉じ込められていた。民藝はそれを、暮らしというところまで押し広げ、それを日常化したと鞍田氏はいう。「使う」「使いこなす」ということには、人と物との関係の親密さを表すものでもある。これはハイデガーの哲学でも展開されていることだ。ハイデガーの道具論では、道具という、物として人間が最も身近に接している存在というのは、実は日常的には意識にのぼっていない。意識の部分では、むしろ忘れられているくらいに身近な存在である。それと同様に、「用の美」というのは、美しさが対象化されているのではなく、むしろ無意識化されている、つまりどれだけその美が忘れられているかに本義があるという。
さらには柳が終始つよく主張したことに「他力」の思想がある。これは「身体感覚の取り戻し」とも位置づけることができる。身体感覚は20世紀のモダニズムがスルーしてしまった重要なテーマである。すでに19世紀末のニーチェが早くから身体という視点を強調しているが、民藝にもそれは通底している。「使う」という行為にも、手の営みが基本にあり、自ずと身体との関わりを念頭に置かざるを得ない。民藝における「他力」とは、モダニズムに対する批判に根ざしたものであり、「他とのつながりの回復」とも言える。実際、「他力」は仏教用語の「他力本願」に由来しており、「自力」と対になるものである。民藝の「他力」は、作家の自意識、自己表現を戒めるために、他なるものにすべてを委ねるというニュアンスで使われている。類似したコンセプトに「協団性」というのもある。
鞍田氏は「他力」という言葉を、作り手だけでなくより広く生活者という視点から、現代的な意義につなげようとしている。つまり、他とのつながりに根ざした身近な身体性の回復こそが、民藝の「他力」の要点ではないか。民藝の面白いところは、眼の力にこだわり、本質的な自分の体験、体感まで意識が深まったときに、自己満足で終わるのではなく、一気に他に開かれるというある種の飛躍にあるという。「自己化」と「他力」は一見矛盾するような言葉ではあるが、民藝の精神においてはそこは自然に接続していくものだと鞍田氏は述べるのである。