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私たちが失ってしまった3つの社会的自由とは——グレーバー=ウェングロウ『万物の黎明』を読む

前章でとりあげた、北アメリカの東部ウッドランド社会の例は、問題解決のより有効な方法を示唆している。たとえば、かれら[カンディアロンクたち]の祖先は、傲慢な領主や司祭のいたカホキアの遺産に背をむけて、自由な共和政体に再編成することができたのに、フランス人の対話者たちが、それにならって古来のヒエラルキーを排除しようとしても、なぜ悲惨な結果になったのか。理由はいくつかあるだろう。しかし、わたしたちにとって忘れてはならない重要なポイントは、ここでは「自由」を抽象的理想とか形式的原理(「自由、平等、友愛」のようなもの)として語っているのではないということである*3。これまでの章では、人が実際に実践できるような社会的自由の基本形態についてお話ししてきた。(一)じぶんの環境から離れたり、移動したりする自由、(二)他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由、(三)まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由、である。  
いまや理解できるのは、最初の二つの自由——すなわち「移動する自由」と「命令に従わない自由」——は、より創造的な三つめの自由のための足場のような役割をはたしていたことである。この三つめの自由の「足場」が実際にどのように機能したのか、いくつかあきらかにしてみよう。ヨーロッパ人が最初に遭遇した北アメリカ社会の多くでそうであったように、最初の二つの自由が自明であるとみなされているかぎり、王はつねに、つまるところ遊戯王としてしか存在できなかった。もしかれらが一線を越えれば[まじめな王になろうとするとき]、かつての臣下たちはいつでもかれらを無視するか、どこかよその場所に移ることができたのだから。おなじことが、それ以外の役職のヒエラルキーや権威のシステムにもあてはまる。おなじように、一年のうち三ヶ月だけ活動し、毎年メンバーが入れ替わる警察も、ある意味では遊戯警察である。そう考えてみれば、そのメンバーが儀礼的道化の身分から直接動員されることもあるという事態も、そうおかしくはなくなるはずだ。  
ここでは、人間社会のなにかが大きく変化したことはあきらかである。三つの基本的な自由は徐々に後退してしまって、わたしたちの大部分は、それらの自由に基盤をおく社会秩序のうちに暮らすことがどのようなものであるか、ほとんど理解できないところまできている。  
なぜそうなったのか? わたしたちはどうして閉塞してしまったのか? そして、わたしたちは実際にどのくらい閉塞しているのだろうか?

デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~』光文社. Kindle 版. 2023. p.896-898.

人類学者のデヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウによる『万物の黎明』より引用。同書の過去記事「「平等主義的社会」とは何を意味するのか」と「主権、官僚制、カリスマ的競合の偶然の合流としての近代国家」も参照のこと。

私たちは近代以降、啓蒙主義によって「自由」や「平等」を目指し、それを手に入れてきたと考えている。しかし、私たちが考えている「自由」とは非常に抽象的なものであり、実際にはかなり自由を失っているのではないだろうか?と二人のデヴィッドは問題提起を投げかける。

二人の人類学者が考える社会的自由には3つある。それは、(一)じぶんの環境から離れたり、移動したりする自由、(二)他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由、(三)まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由、である。近代国家が成立するまで、過去に存在するさまざまな社会では、これらの自由は実際に行使されており、人びとは自由に生きていた。しかし、近代国家では主権・官僚制・カリスマ的競合が合流した結果、人びとはそれらの自由を失ってしまっている。

ヨーロッパ人が入って来る前の北アメリカの社会では、王が存在したとしても、最初の2つの自由を人びとは行為することができた。王が見せしめに人びとを処刑することはあったが、彼らが王から目に見えないところに逃げれば、王はその権利を行使できなかったのである。人びとは自由に移動し逃げることができた。また、命令に服従しない自由も同様に保証されていた。そのとき、王は「遊戯王」としてしか存在できなかった。近代国家に生きる私たちは、この2つの自由を決定的に失ってしまっている。

3つの自由の中でも、もっとも大事な自由は「新しい社会的現実を形成することができる自由」であろう。それは最初の2つの自由に立脚している。私たちは、今置かれている状況に危険を感じたり不満があれば、本来的にはそこから移動し、命令に服従せずに、新しい社会的現実を構築したり、他の社会的現実へと行き来することができるはずである。しかし現代の社会では、人びとは主権と官僚制の檻のなかに閉じ込められ、グローバリゼーションという世界的なカリスマ的競合が起きている中で、どこに逃げても新しい社会的現実を構築することはできないという「諦め」の境地に陥っているかのようだ。「新自由主義」という経済的な「自由」がそれにかわり世界が支配されるなかで、私たちはもっと大切な自由を失ってしまっているのではないだろうか。

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