「さまざまな思想の凝縮」としての断頭台問題——リラダン『断頭台の秘密』を読む
ヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de l'Isle-Adam、1838 - 1889)はフランスの作家、詩人、劇作家。象徴主義を代表する存在の一人。ブルターニュ地方のサン・ブリュー生まれ。一族は11世紀にまでさかのぼる由緒ある名門貴族の家系だったものの、そのころにはかなり落ちぶれており、父親が財宝の発掘や金鉱の開発に熱中して財産を使い果たし、家計は母方の伯母に支えられていた。幼いころから夢想性があり、ブルターニュ地方の学校を転々とした少年時代には早くも文学的才能を発揮。1855年頃からたびたびパリに出かけては、文学者の集まるカフェや劇場に出入りして詩人やジャーナリストの知己を得たほか、ボードレールとも知り合って影響を受ける。
1857年には一家とともにパリへ移り住んで、59年『処女詩集』を自費出版。62年には長編小説『イシス』を自費出版した。その後、マラルメのような良き理解者と出会い、作曲家ワーグナーとも交友を持つ。ボードレールの訳で読んだエドガー・アラン・ポーに影響されて短編小説を書くようになり、67年に自ら創刊した雑誌「文芸美術」に発表する。83年には短編集『残酷物語』を刊行。次第に注目され、『未来のイブ』(86年)、『トリビュラ・ボノメ』(87年)、短編集『奇談集』『新残酷物語』(88年)などを出版したが、89年に胃癌のため他界した。ずっと彼の世話をし、一子をもうけていたマリー・ダンティーヌと正式に結婚したのは死の4日前だった。戯曲の代表作『アクセル』は死の翌年に刊行されている。
リラダンは生涯の大半を貧困に悩まされたものの、貴族としての誇り高さを失うことなく、独自の理想主義の文学を作り上げた。そして彼から影響を受けたマラルメ、ユイスマンスなどは、フランス象徴主義の文学を作り上げていった。
冒頭に引用した「断頭台の秘密」は1883年に新聞「フィガロ」に掲載され、86年刊行の短編集『至上の愛』に収録された短編作品である。死刑囚として収監されているド・ラ・ポンムレー医師のもとに、ある日病理学の巨人ヴェルポー医師が訪ねてくる。ポンムレーは、私欲を遂げる目的から女友だちの一人に致死量のジギタリス毒剤を投与したという罪で死刑宣告されていた。ヴェルポーの頼みというのは、近代生物学の興味ある「問題」について是非協力してほしいというものだった。それは、ギロチン(断頭台)による頭部切断後においても、記憶や意識が人間の脳髄中にはたして存続しえるのか否か、そのため頭部切断後に左眼を開けたまま、右眼を三回ウィンクしてほしいというものだった……。
非常に陰鬱で残酷なテーマであるが、近代医学における影の部分を怜悧な目で活写しているような作品である。リラダン作品において「ギロチン」はくり返し登場するテーマである。1874年のコント「最後の宴の客人」を皮切りに、ギロチンにまつわる物語や論考をコントやエッセーの形式でたびたび発表している。このテーマに長年こだわったリラダンは、一度ならず処刑刑場へ実際に赴いたという。
美術史家のダニエル・アラスは「ギロチンはその刃の落下にさまざまな思想を凝縮して、純粋に医学的な記録簿から政治の領域あるいは形而上学の分野に移っていく」(『ギロチンと恐怖の幻想』)と述べている。リラダン作品にも「さまざまな思想の凝縮」が認められる。例えば、「考える首」という哲学的・医学的問題である。精神(心)の座は何か、意識は身体のどこにあるのかというデカルトの核心的な議論、あるいは生命は特定の器官に固定されるのか、相互連関的なものなのかを問う生命論に関わるものである。リラダンはこの短編を書くにあたり、実際に断頭台による処刑場に赴いただけでなく、解剖学者・生理学者による斬首後の感覚動作に関する報告2編と脊髄についての医学事典の項目を調べたという。その他にも断頭台による処刑と考える首の問題には、サディズム、法的問題、宗教的問題などがからみ、リラダンにとっては生命の不可視の閃光が開示される「神聖なる瞬間」として捉えられていたのである。
参考文献:
小西博子. 神聖なる瞬間:リラダンにおける「断頭台」テーマについて. Gallia. 48: 51-60, 2009.