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ベックのリスク社会と自己対決としての再帰的近代化——『再帰的近代化——近現代における政治、伝統、美的原理』より
こうした二つの段階を区分することで、「再帰的近代化」の概念を根本的な誤解から切り離すことができる。「再帰的近代化」という概念は(reflexiveという形容詞が示唆するような)《省察》ではなく、(まず何よりも)《自己との対決》を暗に意味している。工業社会時代からリスク社会時代へのモダニティの移行は、潜在的副作用の様式にしたがって、近代化の自立したダイナミズムの結果、望まれてもいないし、気づかれないままに、強制的に生じていく。工業社会の確実性(進歩にたいする合意なり、生態系にたいする悪影響や危険要素の忘却)が、工業社会における人びとや制度の思考と行動を支配しているゆえに、リスク社会という布置連関を生み出してきたという言い方は、事実上可能である。リスク社会は、人びとが政治討論のなかで、望んだり、拒絶できるような選択肢ではない。リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程の連続性のなかに出現していく。こうした過程は、工業社会の基盤を疑わしくさせ、最終的にはその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的にも生み出してくのである。
本書『再帰的近代化——近現代における政治、伝統、美的原理(Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order)』は、「再帰的近代化」の理論を進めてきた三人の社会学者、ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュによる三つの論考と、お互いへの応答と批判を含んだ1994年の著書の翻訳である。
本書における「再帰性(reflexivity)」の概念は、三人がこの概念を多少違うかたちで理解しているとはいえ、最も重要な収斂の一つである、と冒頭でギデンズが述べている。ポストモダンに関する延々とつづく議論に三人ともうんざりしており、こうした論争が「再帰的近代化(reflexive modernization)」という新たな概念の導入によって多少変わることを期待するものだという。再帰的近代化の理論が射程におくのは、脱伝統遵守やエコロジー問題である。脱伝統遵守の社会とは、コスモポリタニズムが全地球規模で高まっていく状況のもとで、伝統が今日、自己弁護を求められ、日々審問を受けはじめていることを表す。エコロジー問題、つまり「環境」に関しては、それが、現実に人間の社会生活にもはや外在するものではなく、人間の社会生活によって徹底的に影響を受けていることを表す。「自然」は、人間が実際上の、また倫理上の意思決定を下していかなければならない行為領域へと変質しているというのである。
このような状況のもと、未来は、かつてほど過去との類似性をもたなくなり、いくつか基本的な点でわれわれを非常に脅かすものとなりはじめている。これがベックの言う「リスク社会」である。「リスク」という概念は、今日、近現代の文明の中核をなしている。リスクの決定的な特徴は、それが予知できないということである。予知できないこの新たな領域は、ほとんどの場合、その領域を統制しようとする努力それ自体が創り出している。(ベックの『世界リスク社会論』に関する過去記事も参照のこと)
ベックのいう「再帰的近代化」は、工業社会というひとつの時代全体の、創造的自己破壊の可能性を意味している。この再帰的近代化とは、発達が自己破壊に転化する可能性を意味しており、その自己破壊のなかで、ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階である。ベックは、この新たな段階への変化は、革命や政治的争いなしに、静かに進むという。いわば「猫の歩みのように」それは進む。例えば、貧困の深刻化だけでなく、豊かさの充実もまた政治的なことがらの特質に決定的な変化をもたらしうるという。その事例としてベックは、女性の家庭外就労の増加や労働時間・雇用契約のフレックス化を挙げる。これらは工業社会の新たな段階として、豊かさの充実を求めて静かに進行してきた変化である。その結果、従来からの職業や政治、家庭生活の秩序に見い出すゆったりとしたものごとのペースに激変がもたらされた。
再帰的近代化の社会においては、社会全体に不安が際限なく深く浸透し、またあらゆる領域で同じように派閥闘争が再現なくつづいていく。再帰的近代化は、発展のダイナミズムのなかで、それ自体の力で意図しない正反対の帰結をもたらしていく、とベックはいう。これこそが「リスク社会」の出現を意味している。ベックが唱えた「リスク社会」という概念は、社会的、政治的、経済的、個人的リスクが、工業社会における監視や保安のための諸制度から次第に身をかわす傾向にあるような、そうした近代社会の発達段階を示している。
ベックのいう「再帰的近代化」の概念は、ギデンズの意味するところと微妙に異なっている。ギデンズはポスト工業化社会における個人においては「自己への問い直し」が常に求められるという意味で「再帰的(reflexive)」という言葉を使っているが、ベックはこの「再帰的」という言葉を何よりも「自己との対決」がもたらされる社会という意味で使っている。リスク社会は、みずからが及ぼす悪影響や危険要素(=リスク)を感知できないため、最終的にはその基盤を破壊してしまうような脅威を、潜在的にも、また累積的にも生み出してしまう。この場合、「再帰的近代化」は、工業社会のシステムのなかでは対処したり同化することができないリスク社会のもたらす結果に、「自己対決」していくことを意味している。
リスク社会の概念は、工業社会の途上でこれまで産出されてきた脅威が限界を超えてしまった、そうしたモダニティの段階を示している、とベックは言う。リスク社会における問題は、これから生ずる脅威が五感でとらえられないだけではなく、われわれの想像力を超えるものであること、つまり、科学によっては確定できないことにある。こうした中で、社会は自らが生み出すリスクと自己対決させられていく。
また、リスクというカテゴリーは、マックス・ウェーバーがまったく気づかなかった社会的思考や社会的行為の類型である、とベックは言う。それは、ポスト伝統的カテゴリーであり、ある意味ではポスト合理的カテゴリーである。人びとはリスクを数学や数字で捉えようとするが、常にリスクはそこから逃れていく。為政者や研究者が、今日の時点でリスクがゼロに近いと言ったとしても、明日大災害が起きてしまえばその合理性は破綻する。リスクとは常に蓋然性なのであり、蓋然性のかたちをとらないものは決してない。そしてリスクは、際限なく増殖する。なぜなら、多元的社会において人が決断を評定する際に必要とする決定事項と見地の数に応じて、リスクはリスクそのものを再生産していくからである。
ベックは、リスクが増大するにつれて、「地平線」がよく見えなくなってくるという。なぜなら、リスクは何をしてはいけないかを教えるが、何をしたらよいかは教えてくれないからである。リスクを統制しようという意図が一般に浸透し、高まっていくと、結局のところリスクの統制が不可能になるというのである。これは、リスク問題が必然的に「両義性の容認」(ジグムント・バウマン)を伴うということを意味している。社会は基本的にはリスクを統制し、不確実性を減らしたいということを要求する。しかし、リスク社会においては、こうした「統制要求」が生み出す予見不可能な帰結や副作用が、不確実性や両義性(要するに「疎外」という領域)を結果的に生み出していくわけである。