見えざる現実をみるためのの多自然主義——ハージ『オルター・ポリティクス』を読む
ガッサン・ハージ(Ghassan Hage, 1957 - )はオーストラリアの人類学者、社会学者。専門は、精神分析人類学。メルボルン大学教授(文化人類学・社会理論)。レバノン・ベイルートに生まれ、1976年にオーストラリアに移住、シドニー大学などを経て現職。ナショナリズム、レイシズム、多文化主義、ポストコロニアリズムに関する批判的著作や、トランスナショナルなレバノン人ディアスポラの民族誌的研究で広く知られる。
本書『オルター・ポリティクス』は、2005年から2013年にかけての論考をまとめたものであり、その主張は、「アンチ・ポリティクス(対抗・抵抗の政治)」がかつての求心力を失っており、それを補完する可能性を「批判的人類学」(Critical Anthroplogy)や「もうひとつの政治」(オルター・ポリティクス)に求めるものである。この間、さまざまな政治的な動きがあった。9.11以降の「テロとの戦い」が新たに生み出したイスラモフォビア、イスラエルによるパレスチナへの軍事的圧力の高まりとパレスチナの惨状の深刻化、移民や難民の増加と移民排斥やヘイトクライムの増加など、他者を排除しようとする動向が世界的に深刻化した時期である。同時に、アラブの春にみられた超地域的な社会的・政治的運動の展開やオキュパイ運動、環境問題への世界的な関心の高まりに、ハージはそれまでの社会運動とは異なる可能性と思想的転換を感じとっている。
例えば、イスラエルのパレスチナ軍事侵攻に関して、私たちはどのような「現実」を捉えるべきであろうか。パレスチナ問題について論じることの難しさは、そうした政治的議論がしばしば党派的な議論、二者択一的な議論に巻き込まれてしまうことである。深刻な政治的問題に関わる議論は、党派性を伴った言論の「戦時社会化」をもたらしうる。そのような状況から距離をとるために、ハージは「批判的人類学」におけるさまざまな論点を導入する。その一つが、単一現実主義的な枠組みから抜け出すための「多自然主義(マルチ・ナチュラリズム)」である。
ハージは、西洋近代の到達点が、多様でありうる現実を単純な相でとらえるようになったこと(単一現実主義)であるとみている。「単一現実主義(モノ・リアリズム)」とは、私たちの思考がつながっていたり、つながることができるのは、ひとつの、たったひとつの現実(リアリティ)だけである、という発想である。この単一現実主義は、マルクス主義に触発された唯物論と観念論という政治的分断を反映しており、そこでは現実に対応する思想は唯物論として、そうでないものは観念論として記述される。
しかし、ラトゥールやデ・カストロの「多自然主義(マルチ・ナチュラリズム)」の考え方で、私たちはむしろ「空間性と現実の交差する複数性」の中に存在すると考えることができるようになったとハージは言う。私たちが「現実」と呼ぶものが単なるひとつの「支配的な」現実にすぎないのであり、そこでは「周縁化された現実(マイナー・リアリティ)」、すなわち見えなくされてしまっている現実が存在するというわけである。この「多自然主義」の考え方は、相対主義的で「社会構築主義」的な複数の主観性の考え方とは異なるものである。つまり「アマゾンの人々には彼らの現実があり、私たちには私たちの現実がある」というもの以上のことを意味している。
単一現実主義から離れ、多自然主義的な見方を志向すること、見えざる現実にいかに目を向けることができるのかという主題は、ハージがアンチ・ポリティクスからオルター・ポリティクスとしての政治へという主張で目指しているものである。パレスチナ問題を支配と抵抗という二元論的あるいは単一現実主義的な枠組みだけで理解するのではなく、多自然主義・多現実主義的に、また自分とは異なる視点から、占領を生きる人々の生をとらえようとするハージの記述がそれを表している。
本書で描かれる「オルター(もうひとつの)」というあり方は、簡単に、かつ明瞭なかたちで指し示すことができるような近道ではない。むしろ描くことが困難な、明確に説明することが困難な、見えにくい、そのような道である。巻末の解説で文化人類学者の齋藤剛氏は、ハージの思考について「アンチからオルターへと思考を開くこと、それは声高に主張することから、静かな囁き、聞こえぬ声、消えゆく声に静かに耳を傾けようとする自省的な試みに自らを開くことにほかならない」と述べている。