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文化を発展させることで戦争を防止する——アインシュタイン/フロイト往復書簡『ひとはなぜ戦争をするのか』より

このように、私たちが追い求めるもの——例えば、道徳や美意識にまつわるもの——が変化してきたわけですが、この変化を引き起こしたものは究極的には心と体の全体の変化なのです。心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは知性を強めること。力がました知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。
文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方——これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。だからこそ、私たちは戦争に憤りを覚え、戦争に我慢がならないのではないでしょうか。戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです。戦争への拒絶、それは平和主義者の体と心の奥底にあるものが激しい形で外にあらわれたものなのです。
私はこう考えます。このような意識のあり方が戦争の残虐さそのものに劣らぬほど、戦争への嫌悪感を生み出す原因となっている、と。
では、すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか?この問いに明確な答えを与えることはできません。けれども、文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安——この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。これは夢想(ユートピア)的な希望ではないと思います。どのような道を経て、あるいはどのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、いまの私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。
文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!

最後に心からのご挨拶を申し上げます。私の手紙が拙く、あなたを失望させたようでしたら、お赦しください。
           ジグムント・フロイト

アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』講談社学術文庫, 講談社, 2016.p.53-55.

アインシュタインとフロイトの往復書簡。20世紀を代表する物理学者と心理学者が、「ひとはなぜ戦争をするのか」という重要で普遍的なテーマについて1932年に往復書簡を交わしていたといのは、あまり知られていない。発端は1932年に国際連盟からアインシュタインへなされた依頼である。それは「今の文明でもっとも大事だと思われる事柄を取り上げ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」という依頼だった。アインシュタインが取り上げたテーマは「ひとはなぜ戦争をするのか?」という根本的なテーマであり、また驚くべきことにその相手にフロイトを選んだのだった。時期は、まさにナチスドイツが政権を握る1933年の前年というタイミングである。1933年以降、ユダヤ系であった二人は、国外に亡命することになる。その後、この戦争論の往復書簡は歴史の激動の中で忘れ去られていたのである。
冒頭に引用したのは、フロイトの書簡の最後の部分である。

アインシュタインのフロイトにあてた手紙の中では、平和に抵抗する人間の悪しき二つの傾向として、権力欲と、武器商人たちのように権力にすり寄って利益を得ようとするグループの存在が挙げられる。そうした少数の人間の欲望に、なぜ一般の大勢の国民が従ってしまうのか。アインシュタインの結論としては、「人間には本能的な欲求が潜んでいる、憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」。つまり戦争は、人間の攻撃的な本性ゆえに、決して無くならないのではないかという。この前提にたってアインシュタインは、フロイトに「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」と問いかけるのである。

フロイトは、アインシュタインの問いかけに対して、心理学者としての立場から返答する。フロイトは、人間が相手を絶滅させようとする「本能的な欲求」のことを、「破壊欲動」(「死の欲動」)という概念を用いて解き明かしていく
「死の欲動」とは、第一次世界大戦を経てフロイトが生み出した概念である(『快感原則の彼岸』という論文に初出している)。第一次世界大戦の帰還兵に見られた「戦争神経症」(今でいうPTSD)では、悪夢やフラッシュバックが見られる。フロイトのそれまでの理論は「快感原則」で成り立っていた。人間には常に緊張や不安が少ない状態である「快」を求める傾向があるというものである。しかし、戦争神経症では快感原則に逆らってまで、不快な体験や虐待などの不愉快な人間関係を反復してしまう「反復強迫」が起こっている。それでは「反復強迫」はなぜ起こるのか。フロイトはその理由を「死の欲動」があるからと考えたのである。

フロイトは、人間には「生の欲動」(エロス)と「死の欲動」(タナトス)という二つの欲動が備わっていると考えた。「欲動」とは、言葉の作用がもたらす「欲望」や、生理的な「欲求」とは異なり、心よりもむしろ身体に深く根ざしたある種の傾向・ベクトルのことである。「生の欲動」とは、生を統一し、保存しようとする欲動のことであり、「死の欲動」とは破壊し、殺害しようとする欲動を指す。
ちなみに、「欲動」はかつて「本能」という言葉が当てられていた。しかし、実は人間には本能というものがない。この発見は精神分析の功績の一つである。動物の場合には、遺伝子によって決められたプログラムに沿って行動するという本能がある(このため、教わらなくても生殖行動を行うことができる)。しかし人間の場合は、生殖も含め、言葉を通して後天的に学ばなければならない。つまり人間は、生きる上で必要なありとあらゆる行動を、後天的に学ばなければ実行できないという限界を抱えた生きものなのである。

フロイトは人間にとって「死の欲動」が「生の欲動」と並んで、もっとも古く根源的な欲動であり、言語を獲得する前から人間に備わっていると考えた。フロイトは、「死の欲動」は人間に常に潜在していて、なんらかの理由で「退行」したときに現れやすいと考えた。例えば、戦争で非常に激しいストレスを受けて退行的な状態になった場合などもそうである。

フロイトは国家が戦争という暴力を捨てられない理由を、個々人の欲動のありようと結びつけて考えた。そこで用いたのが、「生の欲動」(エロス)と「死の欲動」(タナトス)という概念であった。フロイトは、人間は誰しも、つながりを求める方向と、互いに切断を求める方向という二つのベクトルを持っている。これらは両価的で、表裏一体と言える部分もあり、しばしば入り混じっている。とぢらの欲動も人間になくてはならないものであり、「二つの欲動が互いを促進し合ったり、互いに対立し合ったりすることから、生命のさまざまな現象が生まれ出てくる」という性質のものである。

フロイトは単純に「死の欲動」が戦争に直結していると言ったのではない。「他方の欲動と切り離され、単独で活動することなど、あり得ない」というように、どんな欲動も複合的なものである。フロイトは「多くの動機が戦争に応じようとしている」と書いている。そこには「高貴な動機も卑賤な動機もあれば、公然と主張される動機も黙して語られない動機も」ある。戦争の動機の一つが愛国心でもあるように、エロス的な動機も当然ある。単純に「死の欲動」だけが戦争の原因ではない。

人間には「死の欲動」が備わっており、それを簡単に取り去ることはできないとすれば、戦争をなくす方法は果たしてあるのだろうか。フロイトは、一つの答えとして「死の欲動」に対抗する「生の欲動」、すなわちエロスの欲動に訴えかけることを提示する。つまり、エロスの欲動の現れ、人間のあいだに「感情の絆」をつくり出すものはすべて戦争防止に役立つとして、二つの例を挙げる。一つ目は「愛するものへの絆」である。これは隣人とつながり合うこと、対話することと考えてよいだろう。二つ目の例は「一体感や帰属意識」である。これは精神分析の言葉では「同一化」と呼ばれている。相手の感情や行動を取り入れ、相手の身になって考えられるようになることを意味している。

フロイトが提示した戦争防止のためのもう一つの方法が「文化の力」であった。フロイトは、人間が戦争に反対する理由は、さまざまな「理屈」ではなく、平和主義者である私たちが「体と心の奥底から戦争への憤りを覚える」からだと主張する。彼はこうした「憤り」をもたらしたものが、人類の歴史で発展してきた「文化」であると述べる。フロイトによれば、文化は欲動の発動自体を抑えるはたらきがあるという。人間は欲動からは自由になれないが、文化を獲得することで、知性の力が強くなり、そうした欲動がコントロールされるようになっていく。その結果、攻撃の欲動は内面に向かうようになる。

フロイトはまた、文化が発展すると、それが究極的には「心と体の全体の変化」をもたらすと述べている。かくして戦争への拒絶は、「体と心の奥底からわき上がって」くるようになる。フロイトが考える真の平和主義者とは、文化の発展を受け容れた結果、生理的レベルで戦争を拒否するようになった人間のことである。たしかにこうした人間が多数派になれば、戦争は終わるのかもしれない。

本書の解説を書いている精神科医の斎藤環氏は、文化とは文明と異なり、人間の価値観を規定するものであると述べる。逆に、価値観を文化として洗練させていけば、あらゆる価値の起源として「生きてそこに存在する人間」にゆきあたるはずだという。つまり文化の目的とは、常に個人主義の擁護なのであり、そうなると、いかなる場合にも優先されるべき価値として、個人の「自由」「権利」「尊厳」が必然的に導かれてくるだろうと斎藤氏は主張するのである。


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