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全人格をかけた戦いとしての異文化フィールド研究——エヴェレット『ピダハン』を読む

科学者として客観性はわたしが最も重んじる価値だ。かつてわたしは努力しさえすれば互いに世界を相手が見ているように見られるようになり、互いの世界観をもっとやすやすと尊重できるようになると考えていた。しかし、ピダハンから教えられたように、自分たちの先入観や文化、そして経験によって、環境をどう感知するかということさえも、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場合がありうるものなのだ。
ピダハンたちは夜わたしの小屋から立ち去るとき、いろいろな言い方でお休みの挨拶をする。たんに「行くよ」と言うだけのこともある。けれども彼らがよく使う表現で、はじめは驚かされたもののわたしがすっかり気に入った言い方があって、それは「寝るなよ、ヘビがいるから(Don't sleep, there are snakes.)」というものだ。

ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン:「言語本能」を超える文化と世界観』屋代通子訳, みすず書房, 2012. p.5.

ダニエル・レナード・エヴェレット(Daniel Leonard Everett、1951 - )はアメリカ合衆国出身の言語人類学者で、アマゾン盆地のピダハン族や彼らの言語についての研究で知られる。ベントレー大学Arts and Sciences部門長。1975年にムーディー聖書学院を卒業後、あらゆる言語への聖書の翻訳と伝道を趣旨とする夏期言語協会(現・国際SIL)に入会、1977年にピダハン族およびその周辺の部族への布教の任務を与えられ、伝道師兼言語学者としてブラジルに渡りピダハン族の調査を始める。以来30年以上のピダハン研究歴をもつ第一人者(その間、1985年ごろにキリスト教信仰を捨てている)。マンチェスター大学で教鞭をとり、ピッツバーグ大学の言語学部長、イリノイ州立大学言語学部長、教授を経て現職。アメリカ、イギリスで刊行された本書の原著は日本語以外にもドイツ語、フランス語、韓国語、タイ語、中国語に翻訳されている。ほかの著書に、Linguistic Fieldwork (共著、Cambridge University Press, 2011)がある。

本書『ピダハン:「言語本能」を超える文化と世界観』は、エヴェレットによる一般の読者向けのピダハン族とその言語についてのノンフィクションである。ピダハンはアマゾンの奥地に暮らす少数民族であり、400人を割るという彼らの文化が、チョムスキー以来の言語学のパラダイムである「言語本能」論を揺るがす論争を巻き起こしたという。ピダハンの言語とユニークな認知世界を30年がかりで調べた著者自身の奮闘ぶりも交え、ユーモアたっぷりに語られる。

ピダハン語は非常に変わった言語であり、現存するどの言語とも類縁関係がないのだと言う。その特徴は例えば「色」を表す言葉がないということにも表れている。例えば赤いものを見たときは「それは血のようだ」と表現し、緑のものを見たときは「それはまだ熟していない」などと表現するという。

あるいはピダハン語には「交感的言語使用」がない。交感的言語仕様とは、主として社会や人間同士の関係を維持したり、対話の相手を認めたり和ませたりといった働きをするものだ。「こんにちは」「さようなら」「すみません」「ありがとう」といった挨拶の言葉である。これがピダハン語にはない。「おやすみなさい」という言葉がない代わりに、例えば「寝るなよ、ヘビがいるから」と言ってくるときもある。これは、ピダハン族の人びとがあまり夜長時間寝ないことや、実際に夜の危険生物に注意を払わなければならないことを表している。彼らは睡眠を少なくすることで「自分たちを強くする」ことができると信じている。強くなるのはピダハン共通の重大事なのだという。

1977年にアマゾン奥地のこのピダハン族の調査をはじめたエヴェレットは、その後30年にわたり一定の期間生活を共にしながら調査を続けることになった。あるとき、一緒に来ていた家族(妻と娘)がマラリアにかかり死にかけてしまう。彼らの村を離れなくてはいけなくなったとき、あるピダハン族の老人が近づいてきてエヴェレットにこう言った。「町から戻るときマッチや毛布を持ってきてくれないか」と。エヴェレットは腹を立てていた。一家の一代危機に直面している自分に向って、ピダハンが考えるのは自分たちの生活用品のことばかりなのかと。ピダハンが、自分たちが陥っている窮状に対して、さほど同情を示してくれなかったことに対して傷ついていたのである。

しかし後になってエヴェレットは気づく。この程度の苦しみはピダハンにとっては日常茶飯事であったのだと。彼らがあてにできるものは西洋人よりはるかに少ない。ピダハンはひとり残らず、近親者の死を目の当たりにしている。愛する者の亡骸をその目で見、その手で触れ、家の周りの森に埋葬してきたのだ。医師もいなければ病気になったときに駆け込める病院も無きに等しい。つまり、彼らは冷淡なのではなく、それが彼らにとっての現実だったのだ。彼らは身内が病気か何かで死にかけているからといって日課をおろそかにするということはない。それをエヴェレットが知らなかっただけだったのである。

ピダハン族と共に生活するようになってエヴェレットが気づいたことがあった。それは、言語学のフィールド研究には全人格をもって打ち込まなければならないということだった知性を傾けるだけでは足りないのである。研究者はまさに未知の文化に飛び込んでいく。その過程で、フィールド研究者の肉体も、精神も、気持ちも、そしてとりわけ自分というものに対する感覚、新しい文化に長くいればいるほど、その文化が自分自身の文化と違っていればいるほど、深い部分で捻じ曲げられていくのだという。それほどに異文化を理解するというのは、生易しいことではなく、全人格をかけるものだというエヴェレットの主張は非常な説得力をもっている。



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