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性差の終焉と人間の精神的超越の終わり——ヘーゲルの反射規定とジジェクのポストヒューマン思想批判
たぶん、この性愛の役割を特定するいちばんいい方法は、「これまで体系を生成するために使われてきたものが、視点を変えることで、それが生成する体系の一部にさせられる運動」としての反射性の概念を通すことである。生成される体系内部に、生成する運動が、ヘーゲルが「反射規定」と呼んだものの形で現れる。規則が反対の形をとる。物質の領域で、〈精神〉が最も惰性的な契機の形で現れ(頭蓋、無定形の黒い石)、〈革命〉が自らの子を飲み込み始める革命の後半段階で、その過程を実際に動かした政治的行為者が、今度は否定され、その主たる障害、革命の論理に最後まで従う気のない軟弱者、あるいは端的に裏切り者という立場に追われる。同様に、社会・象徴の次元が確立してしまうと、人間を定義する「超越的」姿勢を導入するまさにその次元、すなわち性現象という、特異に人間的な、「死なない」性の情熱こそが、まさにその反対物、人を身体的存在という惰性につなぎとめるものとして、人間を純然たる精神性に高めるうえでの主な障害として現れてくるというのも、正しいのではないか。そういうわけで、ほどなく現れると予想され、祝福されることも多い、人間以後の自己複製する存在における性の終焉は、純粋な精神性への道を開くどころか、同時に、従来は特異に人間的な精神的超越と呼ばれてきたものの、終わりも知らせることになるのだ。
スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek、1949 - )は、スロベニアの哲学者。リュブリャナ大学で哲学を学び、1981年、同大学院で博士号を取得。1985年、パリ第8大学のジャック=アラン・ミレール(ジャック・ラカンの娘婿にして正統後継者)のもとで精神分析を学び、博士号(Doctor of Philosophy)取得。現在はリュブリャナ大学社会学研究所教授。ジジェクの著書に関する過去記事も参照のこと(「「不可視な機械によって脱中心化される人間——ジジェク『身体なき器官』を読む」、「ポストコロナの「哲学的革命」——スラヴォイ・ジジェクの『パンデミック』を読む」)。
本書『信じるということ(On Belief)』は2001年のジジェクの著作である。ジジェクをひとこと表現するならば、マルクス主義とラカン派精神分析の思想を入り口にし、その後の展開をふまえながら、現代の後期資本主義社会を読み解く現代思想家(文化批評家)ということになるだろう。本書の内容は、デジタル革命後の「人間」の考え方、ポスト・ヒューマンの思想について、ジジェクなりの考えを示しつつ現代社会批判をおこなっている書籍である。
1960年代にミシェル・フーコーが『言葉と物』において、「人間」は今や流されつつある砂上の姿として捨て去り、当時流行の「人間の死」という主題を立てた。これにジジェクは、ミシェル・ウェルベックの小説『素粒子』を対置する。この物語はセックスをなくした後の存在のための自己複製する新しい遺伝子、ヒューマノイド(人間もどき)に至る人類の未来を予言する内容となっている。ジジェクは、この2つに共通するのは「性差の消滅」だと指摘する。果たして人間にとって「性愛」とは何であろうか。性愛・性差をなくしてしまえば、人間は至高の存在にいたれるとでもいうような、人間の精神的超越への障害と捉えるべきなのか。しかし、「真の愛とは逸脱した禁じられた愛だ」という考え、つまり性差という障害があるからこそ、愛が生まれるという考えも成り立つ。
ジジェクは、人間にとっての性愛の役割を考察する際に、ヘーゲルの「反射規定(reflexive determination)」の考え方が役に立つと述べる。これは「鏡に映ったのを見てはじめて、映すべきものがあることがわかる」というような考え方である。ジジェクはこれを量子力学の「量子的ゆらぎ」の例えで説明する。量子的ゆらぎの中に、あたかもゼロを分解したかのように、ひょっこり浮かぶ仮想粒子の対が粒子(+x)と反粒子(−x)である。反射規定とは、あたかもゼロをわざわざ−xと+xに分解することによって、+xと−xが元々あったことになるような仕組みと言ってもいい。+xに気づくには、その影(あるいは対立物)である−xが必要となる。あるいは、むしろ明瞭に見えている−xのほうが実体化され、それが信じられるようになる。本物は+xの方だと思われているが、実は+xのほうも、−xを前提にしているということだ。−xはしょせん幻だからと言ってそれを消してしまうと、+xのほうも成り立たなくなるという構造、本来は何もないゼロからの対生成、何もないなめらかなところに、でこぼこのひっかかりをつけて捉えるような仕組みが「反射規定」と呼ばれ、それが人間の世界との付き合い方の根幹とされる。
つまり、ポスト・ヒューマン思想において消滅するとされる「性差・性愛」と、その対立物と思われている「人間の超越性(精神的超越)」は、反射規定における+xと−xなのだと、ジジェクは指摘する。人間の精神的超越において性愛は障害となっている(と考えられている)。ポスト・ヒューマン思想においては、性差が消滅することで、人間は新しい次元に移行する(と考えられている)。しかし、人間の精神的超越を生み出しているのは、まさにその対立物である性差・性愛なのである。−xとしての性差・性愛があるからこそ、私たちは+xである人間の超越性を定義することができる。このとき、対立物・障害と考えられてきた性差・性愛を消滅させてしまうと、人間的な精神的超越と呼ばれてきたものも同時に終わるだろう、というのがジジェクの考えである。