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『コールヒストリー』と交錯する〈声〉

湯梨浜町の小さな映画館ジグシアターで、佐々木友輔氏の映画『コールヒストリー』を観た。
とても不思議な映画である。この映画の深みあるいは含蓄について、自分は未だ十分に咀嚼できていない。しかし、それは圧倒的な〈体験〉であった。

映画は、ある〈声〉の話から始まる。

福島県の一帯に〈声〉と呼ばれる噂話がある。
神話や民話と言えるほどの歴史はなく、都市伝説のようなものと見做されている。
ふとした時、知らない誰かに声をかけられ、他愛もない会話をする。
話しているあいだは気づかないが、後になってからはたと気づく。
さっきまで話していた人はヒトではなかった。私はいま〈声〉を聞いたのだ、と。

映画『コールヒストリー』冒頭より

映画は、都市伝説のような〈声〉の話をめぐり展開する。
そして場所はフクシマであり、震災後の今を生きる我々にとって、二重にも三重にも意味を重ねることができる場所である。

〈声〉をめぐる心象風景、それが菊地ゆき氏の「朗読」と、他愛もない日常風景の断片をつないだ映像によって物語られる。

この映画は、映像を説明するために語りが付いているのではない。いわば「詩」のような語り=モノローグが主体であり、映像はその語りを効果的にするために布置され、構成されている。
〈声〉というテーマをめぐる映画が、モノローグという〈声〉によって進められるところが巧妙である。

この映画で語られている〈声〉とは何なのか。

さまざまな解釈が成り立つ。そしてそれが、解釈の自由を許す映画という芸術の醍醐味でもある。

映画を観て私の心に残ったのは、「一人称(わたし)と三人称(誰か)の交錯」、そして「先回りすることと〈声〉」といったことであった。

映画のモノローグは、常に一人称視点で語られているかと思いきや、実は複数の視点(まなざし)が交錯する語りになっている。
都市伝説のような〈声〉の存在を知り、その語りを蒐集するわたしが主体かと思えば、いつのまにか、地元が福島でかつての日々を思い出して語る女性の視点が交錯する。

わたしたちは常に内なる〈声〉とともに生きているが、内なる声(思考)は、これまでの生において、わたしの中に入り込んだ誰かの〈声〉で構成されている。自己は他者で構成されている。

〈声〉はいつも頭の中でこだまする。それが、他者が発した〈声〉であるという確信は得られない。〈声〉がしたほうを振り返って、そこに誰かが居て、その人が発した〈声〉らしいという錯覚をわたしたちは常に抱いている。しかし、それはわたしにしか聞こえなかった〈声〉なのかもしれない。その内なる〈声〉も、結局は他者から入り込んだものであるのだが。

言い換えれば、わたしたちは、いつも幻聴のような状態を生きている。

つまり、〈声〉という現象自体が、常に一人称と三人称が交錯して構成されるものなのではないか。

〈声〉という概念を考察するにあたって、ミハイル・バフチンは避けて通れないであろう。

作品の各要素は、声たちが交差しあう点、方向を異にする2つの応答の言葉が衝突する場所にあわられざるをえない。この世界をモノローグ的に秩序づけようとするような作者の声は、存在しない。作者の志向は、この対話的分解に人びと、イデー、モノの確固たる定義を対置するのではなく、それどころか、衝突しあった声をまさに激化させるほうに……向かっている。融合していない声たちの組み合わせが自己目的、最終的所与となっている。……作者は、各主人公のそれぞれの自己意識に、その者に関する、その者を外部から包み閉じ込めるような自分の意識ではなく、それとの緊張した相互作用のなかでくりひろげられる複数の他の意識を対置している。これが、ドフトエフスキイのポリフォニー小説なのである。

『ドフトエフスキイの創作の諸問題』p.175

ドストエフスキーの小説に、複数の〈声〉が対等な形で、互いに応答しあっているという特徴を見出したバフチンは、それをポリフォニー的(多声的)であると表現した。
そこでは、作品を語る一人称(わたし)と登場人物(彼ら)という三人称の区別はなく、〈声〉たちは複数のまなざしの中で交錯し、応答しあっている。

「わたし」と「誰か」の視点が交錯する現象として〈声〉が現れるというこの映画の主題は、バフチン的に表現すれば、非常にポリフォニー的なのである。

そして、映画の中で語られる「先回りすること」とは、「わたし」はいつも、誰かの視点を先回りして捉えてから発話していたのではないか、という、非常に誠実かつナイーブな語りの中で出てくる。

わたしは、誰かの〈声〉を本当に聴いていたのであろうか。
いつも相手を先回りして自己防衛的に身構えてから聞こえてくる〈声〉は、他者の声ではなく、自己の内なる声なのではないか。

バフチンに戻ろう。

ドストエフスキーの小説では、複数の〈声〉が衝突しあい、交錯し、応答するような場から、存在(=意味)が立ち現れていた。

先回りすることなく、予定調和することなく、自己完結することなく、他者へ開かれるということ。そのときに初めて、存在=意味=ロゴスが立ち現れる。

〈声〉を聴くという他者との邂逅は、そのような現象なのではないか。

そして、それは人生の中でも何度かしか訪れない、稀少な現象なのかもしれない。



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