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「映える」と「盛る」の境界線―生産は悪か?

「映える(ばえる)」ことが、もてはやされる時代になった。

昨日の朝のNHKで、あるスイーツを売り出そうとしている人の紹介で「SNSなどでも映えるよう、見た目にもこだわりました」とアナウンサーが言っていた。よく覚えていないが、お店の商品ではなく、何か素人が作った手作りのものだった気がする。

何かを売り出そう、流行らせたいと思うとき「映える」ことがとても重要なポイントらしい。それは資本主義社会においては当然のことかもしれない。自分たちが生産した商品を、少しでも多くの人に知ってもらい、買ってもらうためだ。

でも、何だろう、この一抹の寂しさというのか、「小僧の神様」の主人公のような気持ちは。

資本主義社会では、商品を生産(produce)する。プロデュース(produce)の語源は、pro(前に)とducere(導く)、つまり「何かを前に置く(導く)」ということである。つまり「前だけきらびやかに見せる」ということであり、陳列棚(ショーケース)と思ってもらえば良い。資本主義社会は一種のショーなのである。

現代では、SNSが発達し、個人でも情報発信や商品あるいはサービスを売り出すことができるようになった。つまり、個人レベルで「生産(produce)」がおこなわれているのだ。このとき、一種の「ショー」、つまり「映える」ことが重要となる。

しかし、ここでは本当に見た目あるいは包装(パッケージ)で表示されている通りに、中身も充実したものであるかどうかは分からないという問題がおきる。外見と中身の差の問題である。

この外見と中身の差が開きやすくなる構造を資本主義はかかえている。なぜなら、少しでも競合相手より、自分たちの商品を良く見せたいからである。そこで、どこまで商品を「盛る」(内容以上に良く見せること)ことができるかという発想になりやすい。しかし「盛る」という言葉には、すでに「偽装する」というニュアンスが含まれており、「映えさせる」と「盛る」には明確な一線がある。

ちなみに、哲学者のマルクス・ガブリエルは、資本主義には「悪」の発想がもともと内蔵されているという。なぜなら、「悪」の定義は、邪悪なものということではなく、「本質を隠そうとする」という行為にあるという。資本主義社会では価格をつけるときに原価にいくらかかったかは隠し、利益を増やそうとするからである。

見た目をより良く見せるという行為自体が「悪」かと言うと、そこに偽装の意図が含まれているかどうかによるだろう。「映える」と「盛る」の境界線はそこにあると思うのである。

と、ここまで書いてきて、最後にこのブログのトップ画像を、フォトギャラリーから「映える」ものを必死に選ぼうとしている自分に気づいた。願わくば「盛ら」れていませんように。

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