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ソクラテスの「ダイモニア」とは何か——プラトン『ソクラテスの弁明』より

私がただ巡回しつつ個人的にかかる忠告を与えてそれで忙しがっているのみで、敢えて公に多数諸君の前に出て国家に献策しないのを、不思議に思う人もまた恐らくあるであろう。しかしその理由は、諸君がすでに幾度か、到る所において、私の口から聴いたところである。それはすなわち私には一種の神的で超自然的(ダイモニオン)な徴(しるし)〔声〕が現われることがあるということである。しかもそれは実にメレトスもまたその訴状の中に嘲笑的に言及しているところなのである。これはすでに私の幼年時代に始まったもので、衷(うち)に一種の声が聴こえて来るのである。そうしてそれがきこえるときには、それはいつも私の為さんとするところを諫止するが、決して催促することをしない。これこそが私が政治に携わることに抗議するものなのである。

プラトン『ソクラテスの弁明』久保勉訳(岩波文庫『ソクラテスの弁明・クリトン』1927. p.47-48)

ソクラテスは、心の内にある神的なもの、ダイモニアを信じていた。そして、そのダイモニアがときどき彼に「◯◯をするな」と諫止してきたと述べている。一体この「ダイモニア」とは何であろうか。というのも、これは後にアリストテレスが幸福の概念として述べた「エウダイモニア」、つまりダイモンあるいはダイモニアを声をよく聴くことに通じているからである。

岩波文庫の『ソクラテスの弁明』の翻訳、解説をしている哲学者の久保勉(くぼ まさる, 1883−1972, 東京帝国大学卒の哲学教授)によると、ダイモニア(daimonia)とは、ダイモニオン(超自然的なるもの)という形容詞の名詞化されたものであるという。言い換えれば、それは神からの徴(しるし)、または上からの合図ないし暗示であり、内なる神の声であるとしている。また、ダイモニアは、元々ギリシャ人のいう神々である「ダイモン(daimon)」とも異なっているという。ダイモンとは、ギリシャの神々、特に低位の神々のことで、人間と関係深く、しばしば守護霊とも解せられる。しかしながら、ダイモニオンの名詞化されたダイモニアの意味は「判然明確でなく、一種の神妙不可思議な、神秘的色彩を帯びた」ものであるという。

また、ソクラテスの「ダイモニア」とは、いわゆる「良心」とも異なるという。なぜなら、それは常に諫止的な声として来るもので、それが沈黙する場合には正しき途上にあるとの信頼を起こさせたのであるが、その「声」は必ずしも善悪に関係があるわけではない。したがって善悪・倫理の根拠として常に命じてくる「良心」とは異なるのだという。しかしやはりその意味は明確ではなく、久保氏は、おそらくソクラテス自身もこれを十分に説明しえなかっただろうと書いている。ダイモニアとは、とにかく内から来るもので、生来熱情的でもあった彼に対しては、しばしば衝動的行動を制止する役を務め、主として実際的態度に関係し、ロゴス(理性)の語るのが聴かれないような場合に、しばしば細かい事について暗示的警告を与えるものであったようである。

ソクラテスが自らのダイモニアを信じていたことは、アテナイにおける彼の死刑裁判にも影響を与えてしまう。なぜなら、彼は国家公認の神々(ダイモン)を信ぜずに、いわば彼自身の神託を持っていたと解されたからである。この意味でも、一般名詞としてのダイモンと、ソクラテスのいうダイモニアは異なっていたと考えられるだろう。

ヘレニズム期のギリシャ人は、ダイモンを良いものと悪いものとに分類し、それぞれエウダイモン、カコダイモンと呼んだ。エウダイモンは、ユダヤ・キリスト教的概念である守護天使や心理学でいう上位自我に似ている。それは死すべき人間を見守り、かれらが災難にあわぬようにしている。このため、幸福はダイモンのはたらきの賜物であるという考えから、字義的にエウダイモンを有している状態を意味する「エウダイモニア」という言葉が「幸福」を意味するようになった。そして悪い意味でのダイモン(カコダイモン)は、キリスト教文化では「デーモン」、すなわち悪霊へと意味が変わっていく。

アリストテレスは、このエウダイモニアの幸福概念をさらに洗練させ、「最高善」というものに位置づける。われわれが求める「善きもの」には大別すると三つあり、それは「有用さ」と「快楽」と「幸福」である。最も価値の高い善きものとしての幸福(エウダイモニア)は「最高善」に位置づけられる。これは人間を人間たらしめる至上の価値でり、人間にのみ備わった理性の活動の完成によって実現する。アリストテレスは、理性の活動とは、人間としての徳(アレテー)の追求であり、テオリア(観照)的態度から生まれてくるものであるとした。


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