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飢餓への権原(entitlement)アプローチと貧困の潜在能力(capability)概念——セン『貧困と飢饉』を読む

飢餓(starvation)とは、十分な食べ物を持っていない人々を特徴づける言葉である。十分な食べ物がそこにないという状況を特徴づける言葉ではない。後者は前者の原因の一つとなり得るが、多くの可能性の一つの原因にすぎない。飢餓が本当に食料供給と関連しているのか、どのように関連しているのかは、現実から検証すべきことである。
食料供給について述べることは、ある財(ないしは財の集まり)そのものについて何かを述べることである。飢餓について述べることは、人々とその財(ないしは財の集まり)との関係について述べることである。ある人が意図的に飢える(断食などの)事例を除いて、飢餓について述べることは、人々の食料供給について述べることにそのまま言い換えられる。したがって、飢餓を理解するためには、所有の構造に立ち入る必要がある。
所有関係とは一種の権原(entitlement)関係である。本書では飢餓の問題をこの枠組みの中で分析するので、前もって権原の体系を理解することが必要となる。飢餓の問題は、一般に貧困と関係があるが、特に飢饉(famine)と関連が深い。

アマルティア・セン『貧困と飢饉』岩波現代文庫, 岩波書店, 2017. p.1-2.

1998年のノーベル経済学賞受賞者アマルティア・センの古典的著作『貧困と飢饉』(1981年)からの引用である。アマルティア・セン(Amartya Sen, 1933 - )は、インドの経済学者、哲学者。アジア初のノーベル経済学賞受賞者であり、政治学、倫理学、社会学にも影響を与えている。無神論者である。

『貧困と飢饉』は、1970年代にセンが発表した論文や報告書のアイデアと事例研究を集成したもので、その主目的は、飢饉と貧困を理解するための分析枠組みとして権原アプローチを提示することにある。本書で用いられる「権原(entitlement, エンタイトルメント)とは、ある社会において正当な方法で「ある財の集まりを手に入れ、もしくは自由に用いることのできる能力・資格」、あるいは、そのような能力・資格によって「ある人が手に入れ、もしくは自由に用いることができる財の組み合わせの集合」を意味する。

Entitlementの訳語としての「権原」とは、本来は「ある行為が正当なものとされる法律上の原因」という意味の法律用語であるが、本書はそれをさらに拡張し、人々の経済的状況を描写するための記述的用語として使っている。本書が伝えたいメッセージは、飢餓とは人々の食料に対する権原、すなわち十分な食料を手に入れ、消費するだけの能力や資格が損なわれた「剥奪」(deprivation)状態を意味し、飢饉とは死亡率の上昇を伴うその剥奪状態の急激な進行であるということである。飢饉においては、一部の人々の農産物や家畜が激減したり、賃金や所得が食料価格に比べて相対的に急低下するが、十分な社会的セーフティーネットが不在な場合には、生存に必要な食料を得るための経済的能力が失われてしまう。その結果、それらの人々が飢えに苦しみ大量の死者が出るのであって、その国や地域にどれだけ食料が供給されているかとは直接関係がない、ということである。

本書でセンは、経済全体における食料供給量の減少(Food Availability Decline: FAD)ゆえに飢饉が生じるというそれまでの「常識」、つまりFADアプローチを徹底的に批判している。しかしながら、FADによって飢饉が引き起こされる可能性を権原アプローチは否定していない。それどころか、FADは権原崩壊のきっかけとなる重要な要因の一つであるとセンはみなしている。誰がどのようにして食料への権原を喪失するのかに注目する、飢饉への権原アプローチは、「マルサス以来の飢饉理論の定式化における最も重要な進歩した概念」(Devereux, 1993)であり、食料総供給量のみを問題とする、飢饉へのFADアプローチの限界を克服したものである。したがって、センによる権原アプローチの重要な特色として「脱集計化」「底辺へのまなざし」が現れる。飢饉の影響は、地域や所得階層、職業集団、エスニック集団、性別、年齢などの違いによって、全く異なったものとなる。この違いを無視した集計的アプローチを採るところに、FADアプローチの最大の欠陥がある。そして、この脱集計化の重要性が広く認知されるようになったことが、飢饉だけでなく、慢性的貧困や経済開発全般の分析に対する、センの権原アプローチの最も重要な貢献であると言っても過言ではない。

その後センが展開した、貧困への潜在能力(capability)アプローチに基づけば、飢餓とは、食料という単なる財が不足している状態というよりはむしろ、食料やその他の財・サービスを用いて達成される、「十分な栄養を得る」という基礎的潜在能力が剥奪された状況と捉えることができる。

貧困分析において最も基本的な問題は、何をもって貧困を計り、評価するかという問題、つまり数学的に言えば貧困評価の空間(space)をどう定義するかという問題である。センは、不平等と貧困、さらに生活水準そのものを判断するための空間として、「機能」(functioning)「潜在能力」(capability)という概念を提示した。「機能」とは、ある人が価値を見出すことのできる様々な状態や行動であり、適切な栄養状態や健康状態、社会生活への参加や自尊心の維持など多岐にわたる。一方、「潜在能力(ケイパビリティ)」とは、達成可能な様々な機能の集まりであり、「様々な機能を達成できる実質的な自由」(Sen, 1999)を指している。経済学の効用理論では、人々の選択は効用最大化の帰結であり、選択の結果のみが人々の状態を評価する適切な尺度だと考えられてきた。しかしセンは、たとえ選択の結果が同じであったとしても、その背後にある選択肢の幅、つまり選択の自由度に価値があることを主張したのである。潜在能力の剥奪という観点から経済発展や貧困を分析することは、自由そのものの価値を重視する視点を提供し、社会参加や民主主義などの分析を可能にした。

潜在能力として捉えることのできる自由の価値が重要であり、人々の行動に影響を与えることの例として、センはアメリカの黒人奴隷に言及している。奴隷労働者の状況は、消費や平均寿命の点から見れば、自由な農業労働者や都市の労働者より優れていたという。にもかかわらず、奴隷たちの逃亡が止まらなかったのは、自由を重視したからである。

近年、潜在能力アプローチの影響を受けて誕生した新しい指標として、UNDPが2010年度より作成・公開している「多次元貧困指数」(Multidimensional Poverty Index)が注目に値する。 これは教育(世帯内に一人も就学年数5年以上の者がいない、就学年齢の子どものうち未就学の者がいる)、健康(世帯員に栄養不良者がいる、子どもの死を経験した)、住環境(未電化、安全な飲用水の欠如など6項目)の10側面での剥奪に関する情報を集計したものである(Alkire and Santos, 2013)。このように、センの飢餓に対する権原アプローチと貧困に対する潜在能力アプローチは、様々な批判はあるものの、従来のFADアプローチなどの欠点を克服するものとして、現在にも広く普及するものとなっている。

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