なぜ人は学ばなければならないのか——吉田松陰『講孟余話』を読む
吉田松陰の『講孟余話』からの一節。松陰の『講孟余話(講孟箚記)』は、松陰が安政二年から三年にかけて、長州の野山獄と杉家幽室で幽囚の身であった時、囚人や親戚と共に、孟子を講読した読後感や批評そして意見をまとめたものである。吉田松陰(よしだ しょういん、1830 - 1859)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。
そこには「人はなぜ学ばなければならないのか」を松陰が説いた箇所がある。松陰いわく、「学問をして何の役に立つのか」という考え方を、孟子は「利の説」と言っている。それは、学問をすることで出世したい、地位や名誉を得たい、人に認められたいという何かの利益を求める考え方である。そうではなく、孟子がいうには「愛と正義もとにする考え方」つまり「仁義の説」にたつ学問の仕方こそ正しいものである。松陰は「そもそも人というのは、良心から発する思いや、道義上、当然と思われることは、すべて実行しなければならない存在として生まれている」という。しかし、その実行すべきこととは具体的に何なのか、人はなかなか知ることができない。それを知るためにはどうすれば良いだろうか。
そのためには、本を読んで、正しい生き方を学ぶこと、そしてそれを学ぶことに喜びを感じることである、と松陰はいう。『論語』にも、「ある日の朝、正しい生き方を知ることができたら、その日の夕方に死んでも悔いはない」という言葉がある。それがまさに「仁義の説」にたって学問をするときの心境である。「それが何の役に立つのか」などと、つまらないことを考える必要などないのである。ただひたすら学問をすることで「正しい生き方」を知りたいと願うことは、孟子の考えに沿う学び方である。
今の世の中(松陰の生きている当時)には、読書をしている人は多くいるが、ほんとうの「学問をしている人」と呼べるような人はいない。それはそもそもの最初の動機が間違っているからである。何事もうまくいっている「順境」の時代であれば、そのような学問の仕方でもなんとかうまくいくであろうが、「逆境」の時代であればそうはいかない。「逆境」の時代では、ほんとうの意味で「学問をしている人」でなければ、多くの問題を正しく解決していくことはできないのだと、松陰は語る。もし今の世の中に、正しい世界を実現すること、また、人としての正しい生き方を伝えていくこと、それらに関心のある人がいたなら、「利の説」ではなく「仁義の説」にたって学問をするということを真剣に考えてほしい、と松陰は力説する。
松陰の考え方は、現代にも大いに通用するものである。勉強をするのはなぜか、学問をするのはなぜか。今も「資格」を得るため、「地位」を得るために本を読んだり、学問をする人は多いだろう。それも必ずしも悪いことではない。しかし、本当に大切なことは学問をして、自分は何を実現したいのかというところにあるのではないか。それが曖昧なままに「とりあえず、目の前の利益を」と考えていると、人はいつしか「利益をもとにする考え方」をする人(つまり「利の説」の人)になってしまうだろう。何かの「目的」をするために学問をしようとしていたはずなのに、いつのまにか「資格をとること」や「社会で生き残ること」そのものが「目的」になってしまっていないだろうか。「利の説」の考え方をする人になってしまってはいないか。「逆境」の時代において、「利益にもとづく考え方」だけでは、時代を乗り越えることもできないし、おそらく「薄っぺらい人間」になってしまうだろう。
「学問をすること」「学ぶこと」の深い目的を自分で掴み取り、そこに向かって利益を考えずに、ひたすら喜びを感じながら学ぶこと。それこそが本当に人が学ぶということなのではないか、と松陰は問いかけているように思える。