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東西文化の結合点としての日本——西田幾多郎『日本文化の問題』を読む

現実即実在としての物の真実に行くという日本精神は、此に本づくものでなければならない。物に行くといっても、それは物質に行くというのではない。自然といっても、環境的自然をいうのではない。主体から主体を越えて主体の底に行くことである。現実即実在と云うことは、絶対を無限の外に考えるに反し、之を自己の底に見るということである。而してそれは世界を主観的に見るということでなく、自己が絶対的に否定せられること、自己がなくなるということでなければならない。到る所に世界のそれ自身に十全なる表現に従うということでなければならない。それは印度に於ての大乗仏教の精神と一つのものである。支那の自然というのは、西洋のそれとは異なって、天人合一の自然であり、物に行くという神ながらの道というのは、かかる自然に徹したものということができる。日本精神は斯くその本質に於て何処までも東洋的でありながら、而も理から事へという所に、その特色があるのである。(中略)主体から主体を越えて主体の底に物の真実に行くという日本精神に於ては、そこに何処までも東洋文化の精神が生かされると共に、それは直に環境的な西洋文化の精神とも結合するものがあるのであろう。かかる意味に於て東西文化の結合点を日本に求めることができる。又そこに主体と環境との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという歴史の行先を像想することができるであろう。

西田幾多郎『日本文化の問題』岩波新書(赤版), 1940. p.106-107.(旧字体は新字体に直した)

西田幾多郎(1870年 - 1945)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。

本書『日本文化の問題』は1940年に刊行されており、西田晩年の思想を日本文化の問題と関連づけて書かれたものである。しかも時は太平洋戦争直前の時期にあたり、日本文化ひいては「国体」や「皇道」を語るには非常に危うい時期であった。それでも西田は自分の哲学思想の総決算を日本文化・東洋精神と結びつけてあえて書き下ろしている。

晩年の西田の思想を理解するには「絶対矛盾的自己同一」が一つの鍵である。西田は「物と物とが相働くというのは、物と物とが何処までも相対立し相否定し合うことと考えられる」が、その関係性の中で「甲が乙と共通なる場所を自己となすことによって、即ち自己が一般者となることによって、己を自己となすということ」という風に説明する。自己と他者が相対立するなかで自己が自己否定を通して「一般者」になることで本来的自己になることを指している。一種弁証法的な考えなのであるが、西田の思想にはそこに「無」の概念を入れているのが特徴である。これは非常に東洋的な思想である。自己の底には「絶対無」の自己があり、実体的なものはないとする。その「絶対無」の自己こそ「一般者」としての自己であり、この一般者の特殊限定として多様な現象が現れるとする。つまり、「一」としての一般者が、「多」としての多様な現象を生む。しかし多様な現象としての自己は、掘り下げていくと一般者に行き着くのであり、これを「多と一の矛盾的自己同一」と表現する。

西田はこの思想を日本文化の問題にまで広げて考える。文化作用とは「歴史的世界の自己形成として、そこに人間が成立すること」であり、文化とは「斯く絶対矛盾的自己同一的世界の種として、自己自身を形成する種的形成、即ち人間形成」のことだとする。では日本文化の根底をなすものは何かと考えたときに、西田は「皇室」あるいは「皇道」というものを想定する。「皇室というものが矛盾的自己同一的な世界として、過去未来を包む永遠の今として、我々が何処までもそこからそこへと云うのが、万民補翼の思想」であると説く。しかし西田は盲目的な皇道賛美の姿勢に哲学的観点から批判も加えている。「最も戒むべきは、日本を主体化することでなければならないと考える。それは皇道の覇道化に過ぎない、それは皇道を帝国主義化することに外ならない」(同書, p.82)と名言している。1940年という時期に、ここまではっきりと日本の帝国主義化を批判するというのは非常に勇気のいることだったであろう。

さらに西田は日本文化の特色として「物となって見、物となって行う」ということ、つまりは「無心」とか「自然法爾」という思想にあると説く。ここでいう「物」とは物質的ということではない。それは主体を捨て去って、主体を越えて、絶対無としての自己になることで到達する境地である。これは鈴木大拙の禅の思想にも大きく影響を受けていると思われる。ここに西洋文化における「主体」を基軸にすえる思想との対比をみている。日本文化の場合は「世界を主観的に見るということでなく、自己が絶対的に否定せられること、自己がなくなるということ」が中心にくる。これを大乗仏教の「無」の思想や、中国の「天人合一」の思想、あるいは禅の「自然法爾」の思想と関連づけて語っている。

西田はこうした「主体を越えて主体の底に、物の真実に行く」という日本文化においては、東洋文化の精神が生かされるとともに、西洋文化の精神とも結合することが可能だと論じる。なぜなら、主体と主体が相対立してしまい、他者を受容しにくい主体を基軸にした西洋文化と異なり、日本文化においては常に自己を絶対無化することによって、他者としての外来文化を受け入れ、変容しつつ取り込んできたからである。ここに「東西文化の結合点」としての日本文化の特徴を西田は見ていたと言えるだろう。

しかし、1945年6月に亡くなった西田は日本の敗戦と戦後の復興を見ていない。8月の敗戦によって「日本精神」なるものは一度木っ端微塵に吹き飛んだ感がある。西田が想像していたような「歴史的世界の自己形成」というあり方では、日本文化は存続しなかった。しかし、戦後徹底的に「アメリカ化」される中でも、日本文化の精神は今も脈々と私たちの中に息づいているように思われる。そのとき西田の思想は、その哲学的観点のユニークさからも、決定的参照点になるように思われる。


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