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模倣的欲望と暴力の沈静化のための供犠——ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』を読む
鎮静化されない暴力は、身代りの犠牲を探しもとめ、いつもそれを見つけ出すのである。暴力は、その激怒を誘った当の相手の代りに、たまたま手近に来た、叩きのめすことのできる生き物だということ以外、何ら激怒を買う特別な資格をもたない生き物を身代わりに仕立ててしまうのである。
身代りの犠牲を手に入れようとするそうした性向が、人間の暴力の場合にも例外でないことは、あまたの証拠が示すところである。(中略)
儀礼における供犠はその種の代替作用に根拠を持つのではなくて、その逆であると考える方がよいだろう。たとえば、動物をいけにえに捧げるということは、保護したいと思う生き物から、死んでも大して惜しくない別な生き物、あるいは死んでも一向にかまわない別な生き物に、暴力の鉾先きを向けさせることだということは理解できる。
ルネ・ジラール(René Girard、1923 - 2015)は、フランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって新しい人類学の基礎を築いた。自身では暴力と宗教の人類学を専門とすると述べている。著書に『欲望の現象学』(1961年)、『暴力と聖なるもの』(1972年)などがある。
ルネ・ジラールは、学際的な視点を通じて独自の人間学を提唱したことで知られている。彼の研究は文芸批評から始まり、人類学や神話学、さらには宗教哲学にまで広がっている。まさに現代を代表する知の巨人の一人と言えるだろう。彼の著作は多く翻訳されているものの、その研究は従来の学問の枠を超えた独創性を持つためか、一般にはあまり広く知られていない。
まず注目すべきは、ジラールの思想における「模倣的欲望論」である。この理論は、彼の初期の著作『欲望の現象学』で提唱された。
欲求と欲望は異なる概念だ。欲求は生理的なもので限界があるが、欲望には際限がない。そして、欲求が欲望へと変わる過程で重要な役割を果たすのが他者の存在である。他者をモデルとして模倣することで、初めて欲望が生まれるのだ。ジラールは、近代文学の遺産を深く掘り下げる中で、この「模倣が欲望を生み出す」という構造を発見した。さらに、欲望は模倣の対象である人物に対する競争心や嫉妬を生み出し、やがて果てしない対立、すなわち「模倣的抗争」に発展するのである。
ジラールは次に、神話に描かれる「供儀」の問題に焦点を当てる。その供犠と暴力の関係を考察したのが、冒頭に引用した『暴力と聖なるもの』である。
多くの起源神話において、共同体が危機に直面した際、供儀——つまり生贄を捧げる行為——によって危機が解消されるという構造が描かれている。その中心には、特定の人物の殺害や追放という形で問題が解決される点が共通している。
ジラールは、古代社会における供儀の役割を独自の視点から分析する中で、供儀神話に見られる3つの共通項を導き出した。(1)模倣的欲望が模倣的抗争を引き起こし、それによって共同体が無秩序状態に陥る。(2)その無秩序を収束させるために、特定の人物が問題の原因とされ、暴力がその人物に集中することでスケープゴートが生まれる。(3)スケープゴートとされた人物は、共同体の総意によって殺害されるか追放され、その行為が神聖化される。
この分析から、ジラールは、古代社会では模倣的抗争による暴力を抑えるために身分制度などの社会的秩序が不可欠であり、スケープゴートが暴力の排除に重要な役割を果たしていたと指摘する。追放または殺害されたスケープゴートは聖なる存在として位置づけられるが、その完全な排除が難しいため、再び模倣的抗争が高まり、供儀が繰り返される悪循環が生じる。
ジラールは、この悪循環の構造を犠牲者の視点から解明したのが聖書であるとし、その点でキリスト教は他の宗教よりも卓越した宗教であると考えるようになった。彼の学説の背景には、自身の宗教的回心体験とキリスト教への信仰が基盤として存在している。