ブッダの「行為」論——「初期仏教」の研究成果から学ぶ
著者の馬場紀寿(1973 - )氏は、日本の仏教学者、東京大学東洋文化研究所教授。研究領域は古代インド仏教と上座部仏教。パーリ文献とサンスクリット文献・漢訳文献・チベット訳文献とを比較して、インド仏教史を解明することを目指している。著書に『上座部仏教の思想形成―ブッダからブッダゴーサへ』(春秋社)、『仏教の正統と異端―パーリ・コスモポリスの成立』(東京大学出版会)などがある。
本書の特徴は「初期仏教」の思想を、数々の資料に基づいた研究成果にそってわかりやすく論じているところにあり、後代の大乗仏教などの考えに派生していく以前の、最も古い時期の仏教の思想を探求するものとなっている。当時のインドの諸思想(宗教)であるバラモン教、アージーヴィカ教、ジャイナ教などの思想とも比較しているのも特徴である。
初期仏教を探求していくと、それが果たして「宗教」という概念に当てはまるのかはなはな疑わしいと馬場氏は述べる。まず、初期仏教は全能の神を否定した。世界を創造した神は存在しないと考える。そういう意味では初期仏教は「無神論」となる。したがって、初期仏教は、神に祈るという行為によって人間が救済されるとは考えない。また、初期仏教は、宇宙の秩序にそった「人間の本性」があるとは考えない。儒教や老荘思想のように「道」や「性」にもとづいて社会や人間の規範を示すこともしない。人間のなかに自然な本性を見いだして、そこに立ち返るよう説くのではなく、人という個体存在がさまざまな要素であることを分析していく。
初期仏教は、日本の仏教ともずいぶん異なる様相を呈している、と馬場氏は述べる。初期仏典では、阿弥陀仏も、観音菩薩も説かない。永遠に生きている仏も、曼荼羅で描かれる仏世界も説かれない。初期仏教はそれに代わって「個の自律」を説く。超越的存在からくる規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説くのである。
初期仏教の大きな特徴として「行為」の意味を大きく転換したことが挙げられる。当時の諸宗教では、行為の善悪をどう考えるのか、その行為(業)の意味は輪廻思想をもとに解釈された。例えば、バラモン教では、行為とは主に祭式を指す言葉であった。アージーヴィカ教では、現生の行為も来生の行為も運命論によりすでに決まっていると考えた。ジャイナ教では、行為とは外から流入してくる物(業物質)だと説き、真の自己はこの外的な物によって輪廻を繰り返すのだと考えた。これに対し、初期仏教では「行為」とは自発的な意思にもとづく初行為だと説く。祭式や苦行に頼らずに、自己の人生を作るのは自己自身だと信じ、自らの未来をよりよくするために倫理的な向上を目指す考え方だったのである。
ブッダの「行為とは意思である」という定義は明快である。それは、為したこと(行為)と同じくらい思ったこと(意思)を重視するという考え方である。それまでの宗教は、行為の善悪を自己の意思の外部に求めていた。例えば、前世で行われたことが原因であるという運命論や、全ては神の意思によるとする主宰神論などである。しかし仏教では、行為とは自己の意思が外に現れたものであると考える。自己の自由意志によって行為は為されるので、正しくない意思が殺人や虚言などの行為により外へ発揮されると、それは苦として自らに折り返してくる。正しい意思を持ち、正しい行為をするならば、自らに楽を生む。つまり、自由意志に基づいた「自業自得」論である。
その論理的帰結として、自らの心(意思)を正すことによって、自らの行為を正すことが目指される。それはあくまで、自分の意思を律することであるので、共同体の規範に従うとか、神の命令に従うといった他律ではない。あくまで自分自身で生み出す規範、つまり「自律」なのである。初期仏教は、自分の行為は自分の意思の結果であるとする、「個の自律」を徹底的に説く考え方なのである。「自業自得」というときの、自分の「業」とは、前生での行為や、苦行や祭祀をしたかどうかで変化するものではない。それは自分がどう「意思」したかによって決まるものだと考えたわけである。このように見てくると、初期仏教は、前生や来生を説かない現生主義的な教えであり、運命論や神を説かずに自由意志を重視する考えである。
今や日本の仏教は「葬式仏教」とも揶揄されるように、仏教と言えば「死」や「葬式」ということばかりがイメージされる。しかしながら初期仏教は、死後の生やどうしたら極楽に行けるかといったことにはほとんど関心がなく、今の私たちの人生において、どのように正しく生きるか(行為するか)という「哲学」だったということができるだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?