後期ハイデガーの思想:「存在の真理」と「性起(しょうき)」とは
後期ハイデガーの思索についてである。後期ハイデガーの思想はあまり解説書がなく、ハイデガー研究者でも避ける傾向にある。それは単純に「理解が難しい」からなのだという。この本を書いている轟孝夫氏でさえ、自らがハイデガーの専門家にもかかわらず、後期ハイデガーで出てくるハイデガー用語「存在の真理」「存在の立ち去り」「性起(しょうき)」などの用語に関してなかなか理解が追いつかず、当初は読んでいて途方に暮れたという。しかし、中期・後期のハイデガーの思索には、『存在と時間』では探求できなかった、現存在(人間)を経由しない「存在」の探求、つまりは、「存在への問い」の到達点が示されているという。ハイデガーの思想の真骨頂は、中期から後期の「存在」そのものへの思索にあるのであり、それを踏まえずして『存在と時間』だけでハイデガーを分かったつもりになるのは、明らかに片手落ちなのである。(中期ハイデガーの思想についての記事も参照のこと)
ハイデガーの「存在への問い」は、根本においては「神性の本質そのもの」への問いであった。彼にとっては、伝統的な神学が「神」を結局のところ、「存在者」の水準へと引き落として捉えていることを批判して、「神」が「存在」に根ざしていることを示すことに考察の主眼が置かれていた。そうした背景から、中期ハイデガーでは、「存在」が「存在者全体(Seiendes im Ganzen)」と言い換えられていく。ハイデガーが「存在者全体」として捉えようとするのは、存在者が存在することの背景をなし、また「存在」を可能にしている「場」そのものであった。
しかし後期には、「存在者全体」という言い回しも見られなくなる。その代わりに「存在」の生起としての「時‐空間」の拡がりを示す表現としては、「存在の真理(Wahrheit des Seyns)」や「明るみ(Lichtung)」などが基本になる。なぜ、ハイデガーは「存在者全体」という言い方も放棄したのだろうか。それは「存在者全体」という言葉が、単に存在者の集まりをイメージさせやすく、「存在」の生起に含まれる「出来事的」性格や運動性が抜け落ちてしまうからである。ハイデガーはこれに代わる「存在の真理」という言い方によって、「存在」がまさに「存在」としてあらわになるという事態そのもの、その動的で出来事的な性格をあらためて強調しようとした。ハイデガーにとって「真理」とは知性的に把握されるものではなく、「非隠蔽性」、つまり真理そのもの(存在)が自ずから立ち現れるようなことを意味していた。したがって「存在の真理」とは、「存在」がそれとしてあらわになるという事態を指している。「存在」があらわになるということは、ある固有の「時-空間」が生起することにほかならない。それゆえ「存在の真理」とは、結局のところ、「時-空間」の生起そのものを意味しているのである。
ハイデガーが「存在」そのものを捉えようとするとき、このように「存在の意味」から「存在者全体」、さらには「存在の真理」などと核となる用語を置き換えていく理由は、「存在」が主観の前に立てられた対象といった主観-客観図式で捉えられるものではないということを表現するためであった。そもそも西洋的な学問知は、基本的な対象について何かを語るというスタンスを盗っている。したがって、「存在」を語るには、まずそうした学問的姿勢、ならびにそこから生まれた語り口そのものを放棄する必要があったのである。
こうした「存在の真理を単純に言おうとする試み」において最も重要な術語が「エアアイクニス(Ereignis)」、日本語では「性起(しょうき)」と訳される語である。ハイデガーは端的に「存在は性起として生起する」と述べている。「性起」とは、「存在」が人間を捉え、わがものとする局面を捉えた表現である。「存在」が人間を圧倒し、規定するという性格を表現している。さらには"Ereignis"という言葉は、"eigen(自分の、固有の)"を語源とする動詞群に形が似ている。つまりこの言葉には、何ものかが「おのれ固有のものへと立ち返る出来事」、「おのれ自身になる出来事」というニュアンスも込められている。
ちなみに「性起(しょうき)」という訳語は、「エアアイクニス」の定訳となっているが、もともとは仏教、とくに華厳経学の用語であるという。「性(しょう)」とは、人間に本来備わっている「仏性(ぶっしょう)」、「自性清浄(じしょうしょうじん)」を意味し、「起」はそれが顕現することを指す。おのれに固有なものの生起という「エアアイクニス」の意義にうまく適合しているという。しかし、このことは端的にハイデガーの思想が仏教的なものだということを自分の著書で意図したいわけではないと、轟孝夫氏は述べている。結果としてハイデガーの思想が仏教の思想に類似しているということはあるかもしれない、というそれだけのことである。