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Fingo ergo sum(演ずるがゆえに私は存在する)——スローターダイクのニーチェ論

こうして、美的演技に関する自己観察は、ニーチェの哲学的知覚の集結点の一つとなる。嘘をつき、創作し、偽装するエネルギーの活発な活動としての芸術現象は、探求と不可分の生の自己客体化に、魅力的な可能性を提供する。(中略)たとえその真理はすぐに古くなり、忘れられようとも、少なくとも私の自己生産の疾走が私のなかから取り出したものは、私はもはや疑う必要がない。そして、たとえ私は、すべての個体化された生と同様に、耐え難いものから耐え難いものへと転落しているにすぎないということが真であっても、この転落の途上で、私はできる限り私に耐え、私自身のもとにあり、活発な仮面としての私の現実的存在の基盤を、疑い続けながら危うくする必要はもはやない。演ずるがゆえに私は存在する [Fingo ergo sum]。
すなわち、確固たる基盤を欠いたような自己生産であっても、それが自己を現実的な仮象の一定の部分として生産する限り、意義がある。(中略)すなわち、純粋な自己知覚が芸術家に、その力を出し尽くす瞬間に、それは私だった!と呼んだものへの疑いなしに、世界は没落してよい。私はこうなったのだ!この成果にとって私は、媒体として必要だった!それは、芸術作品としてはあまり値打ちがないかもしれない、しかし、そのなかで語っているものは、私を通じて語った!私ははかない存在かもしれない、けれども私のはかなさは、ひとつの芸術的出来事への私の関与によって現実的なものへと止揚される。

ペーター・スローターダイク『方法としての演技:ニーチェの唯物論』論創社, 2011. p.116-117.

ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクによるニーチェ論である。原書の題名は『舞台の上の思想家:ニーチェの唯物論』(1986年刊行)である。スローターダイクは、当初は在野の評論家・エッセイストと見られていたが、80年代の『シニカル理性批判』の成功により一躍注目され、90年代以降はポスト・モダンを代表する哲学者の一人と評価されている。現在は、カールスルーエ造形芸術大学の学長を努めている。

本書はニーチェの『悲劇の誕生』を読み直すという主旨で執筆された。ここでのスローターダイクの独特のニーチェ解釈とは、「ニーチェの思想は思想家ニーチェが演じたドラマである」というものである。
ニーチェの思想は、現代の人間をめぐる思惟においてひとつの転回点を印すものとみなされる。ニーチェの思想は、人間の理性の自律性に根本的な疑問を投げかけ、西洋の歴史において一貫して保持されてきた人間の定義、すなわち、人間の本質は理性であり、この理性こそ、あらゆる目的設定の基準をなすものとして、人間における動物的・自然的性格を支配、統御すべきものである、とする定義を震撼させた。ニーチェはこれまで疑われることのなかった真理自体の価値を問い、理性的思惟を「生」に奉仕する道具の地位に引き戻すのである。

スローターダイクの言う「ニーチェのドラマトゥルギー的方法」とは、どのようなものか。それは「近代の諸個人が自己探求のドラマを上演する」という「認識の実験」である。この場合、追求される「真理」とは、真偽判断の対象というよりは、思想家を癒し、生の成就を助ける「治療薬剤的」な概念となる。ニーチェはこのドラマの舞台上で、仮面から仮面へと自己を客体化させながら、「私とは誰なのか」という問いを探求する。自己認識のこの運動は、否定的な循環構造を示す。なぜなら、この循環は、成就しなかった自己像を突き放し、探し求めて達成されない幸福の絵姿を焼くことで、その端緒としての苦痛と「愛」に立ち返るからである。スローターダイクはこの循環を、ニーチェがその人生のすべてをかけた「精神航海術的循環」と呼び、その真理探求の独自かつ徹底的な「方法」を特徴づけ、その成果と問題を解明することが、彼のニーチェ論の内容である。

スローターダイクによれば、ニーチェが付けた仮面ないし衣装は大きく分けて4つある。一つは「天才主義と神話的情熱」という仮面。第二は「アポロンとディオニュソスというギリシア悲劇」の仮面。第三は「哲学者としての心理学者」という仮面。そして第四が「非道徳的予言者」という仮面であった。ニーチェは、第三の実証主義的心理学者の仮面のもとでは、より公然とアポロン的抵抗のエネルギーを支持するが、第四のツァラトゥストラ、すなわちディオニュソス的予言者の仮面のもとでは、いわば無意識的なものの浮上をその限界に至るまで演じきることになった。

スローターダイクによれば、この第四の仮面のもとで、個体化という根源的な苦痛をすべての基礎の基礎として承認するニーチェは、「嘘の実存的不可避性」を洞察する。したがって芸術は、嘘をつき、偽装するエネルギーの活発な場である。ただし、悲劇的芸術においてはその嘘が暴露されるので、美的主体は、耐え難いものから耐え難いものへと転落し続けながら「私」の産出をくり返さなければならない。しかし、そこに創出されたものは、ある時点での疑いようのない「自己の真理」であるという。衣装を身につけ演じることによって、「私」は存在できる。つまり「Fingo ergo sum」というわけである。


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