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上善水の如し、Be water my friend——ドリアン助川さん『バカボンのパパと読む「老子」』を読む

上善水の如し。水は善く万物を利して而も争わず。衆人の悪(にく)む処に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。居るには地を善とし、心には淵(ふか)きを善しとし、与(とも)にするには仁なるを善しとし、言は信あるを善しとし、政(まつりごと)には治まれるを善しとし、事には能を善しとし、動くには時を善しとす。夫れ唯争わず、故に尤(とが)無し。

(現代語訳)
最上の善は水のようなものだ。水は万物に恵みを与え、しかも争わず、それでいてすべての人が嫌がる低いところにいる。それゆえに水は道に近い。身を置くには地のように低いところを良しとし、考えのうちでは奥深いのを良しとし、人と交わるには仁愛あることを、言葉においては信義あることを、まつりごとは国が治まるのを、事に対するにはなるようになるの気概を、行動においては時を誤らないことを良しとするならば、いずれも争いにならず、とがめられることはない。

(バカボンのパパ訳)
善のチャンピオンは水のようなものなのだ。わしらはのどが渇いたら水を飲むのだ。水はあらゆる生きものに恵みを与え、しかも水どうしでは海だ川だとその出身を争ったりしないのだ。それでいて水は、地位で言えばみんなが嫌がる一番低いところにいるのだ。そういうわけだから、水はTAOに近い存在なのだ。
水に学ぶと、わしら人間もまた、立場としては地面のように低いところにいるのが良く、いろいろな考えが浮かんだら一番深いのを、友達と遊ぶときには優しい態度を、言葉は信用できるものを、政治をするならみんながまーるく治まることを、事件が起きたら、そんなものはなるようになるのだという自然任せを、何かするときはグッドタイミングを良しとするのだ。こうしてわしらは人と争わないから、誰からも邪魔されないのだ。これでいいのだ。

ドリアン助川『バカボンのパパと読む「老子」』角川文庫, 2016. p.31-32.

作家・詩人のドリアン助川さんによる『バカボンのパパと読む「老子」』、第8章より引用。「老子」全81章を、原文とドリアン助川さんの現代語訳、そして、バカボンのパパ訳で併記しているのが特徴的で、非常にわかりやすい。

ドリアン助川さんいわく、この五千余字の『老子』には結局何が書かれているのか。ひとことで言えば「無為自然」の教えなのだという。人の知恵であれこれ考えて策を弄するのではなく、大いなる自然の摂理である「道=TAO」と息を合わせ、そこから生き方やあり方を見つめ直してみなさいと老子は語っている。

「道(TAO)」とは何か。それをひとことで言い表すのは難しい。『老子』全81章は、その「道」の一つ一つのスケッチのようなものであり、全体を読み、少しずつ理解していくことで「道」の全貌を少しでも感じることができればそれでよいとドリアン助川さんは言う。

老子の根幹は、TAOに従い、TAOを自らに取り込むことによって、誰もが本来の命の分だけ生きることができるという部分なのだとドリアン助川さんは言う。為すがままに生きよ、無駄に死ぬなよ、と老子は語ってくれているのだ。

『老子』を読むと、その反戦思想、戦争が無為であり無駄なものであるという思想も強く感じることができる。老子にとっては、戦争もまた、人の欲望の産物に見えたのである。人の集団である国が、他国の領土を欲しがる。そこから争いが生まれる。だからまず、一人ずつの胸から欲望を消し去れと老子は言っている。これが仏教と交わり、のちに「禅」へと発展した老子的思考の帰結点なのである。

『老子』の第8章は「上善如水(上善水の如し)」という文章である。最上の善は水のようなものである。水はすべてのものに恵みを与え、しかも争わない。常に、人が嫌がる最も低いところにいる。常に低いところにいて、奥深い考えを良しとして、人と交わるには優しさ(仁)をもってし、言葉においては信義あることを心がけ、事に対しては「なるようになるのだ」のバカボンのパパの気概をもつ。このように生きれば、何も思い悩むことはなく、「道」に従って生きることができるのだ。

ちなみにこの「上善水の如し」は、武術家のブルース・リーが、自身の武術の根本哲学として大事にしたことでも有名である。ちなみに彼の言葉は以下のようなものである。

Empty your mind, be formless, shapeless – like water.
Now you put water into a cup, it becomes the cup,
you put water into a bottle, it becomes the bottle,
you put it in a teapot, it becomes the teapot.
Now water can flow or it can crash.
Be water, my friend.
(心を空にせよ。型を捨て、形をなくせ。水のように。
カップにそそげば、カップの形に、
ボトルにそそげば、ボトルの形に、
ポットにそそげば、ポットの形に、
そして水は自在に動き、ときに破壊的な力をも持つ。
友よ、水になれ。)

ちなみにこの「Be water(水になれ)」は、2019年長期化する香港デモの中でも、精神的支柱となるスローガンの一つとなった。香港はブルース・リーが映画俳優としても活躍した街であり、彼らの心にブルース・リーが持つ影響力は大きい。

圧政に対して屈強に抵抗するのではなく、水のように、争わずに抵抗すること。それこそが逆説的に最も強い力なのであり、「道」に通じるあり方である。この言葉が老子以来、2000年の時を経て、ブルース・リーを経由して、現代の香港の人たちの心を奮い立たせたというのは、なんと素晴らしいことではないだろうか。


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