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沖縄的共同性としーじゃ(先輩)とうっとぅ(後輩)——打越正行氏『ヤンキーと地元』を読む

このように、しーじゃとうっとぅの関係は、沖縄の下層の若者たちの生活と仕事の基盤をなすものである。それは生活全体を貫き、支配的で、暴力を含む過酷なものだが、彼らの主たる就職先である建設会社にとっても都合のいいものであった。地元の中学を卒業した少年らを建設会社が雇い入れることで、中学時代に形作られた、しーじゃとうっとぅの上下関係が、そのまま持ち込まれる。それによって経営者は、従業員同士の関係を得ることができたし、現場で必要なスキルの多くが、この上下関係をもとに継承されていた。建設業でのこうした上下関係は、世代交代が進むなかで維持されてきたのであった。

打越正行『ヤンキーと地元:解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』筑摩書房, 2019. p.150-151.

打越正行(うちこし まさゆき)氏は、1979年生まれの社会学者。2016年、首都大学東京人文科学研究科にて博士号(社会学)を取得。現在、特定非営利活動法人 社会理論・動態研究所研究員、沖縄国際大学南島文化研究所研究支援助手ならびに琉球大学非常勤講師。2019年3月、本書『ヤンキーと地元』(筑摩書房)を上梓。共著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版、2016年)など。

打越氏は約10年にわたって沖縄の下層の若者たちを調査した。彼らは高校や大学を卒業して安定した職を得るような人生のレールには乗ってはいない。その意味で彼らは周辺的な存在と言っていいが、裏社会を生きるような特別な存在ではない。普通の若者である。その「普通の若者」である彼らを打越氏は、自ら彼らの「パシリ」となることで調査することになる。パシリとして調査を進めることは、自分に合っていると考えるようになった。パシリとして失敗しても、それがきっかけで彼らとより深くかかわる契機になると気付いたからである。

打越氏はもともと教師になりたかったという。しかし、不良少年たちと駐車場で朝まで飲み明かしたとき、初めて知ったことがあった。それは「大学も高校も、彼らにとっては、一部の人間のためにつくられた場所で、しらけた出来レースが展開される場所でしかない」ということだった。そんな風に学校を見たことがなかった打越氏は、自分の無知を嫌というほど思い知らされたという。そのような思いが、打越氏を周辺的な若者たちの研究へと向かわせた。それもただ話を聞いたりインタビューをするだけではだめだと気づく。話をきかせてもらうには、相手に失礼のないよう信頼関係を気づかなくてはならない。そのための方法が、彼にとっては参与観察という方法だった。2007年に沖縄の調査をはじめた打越氏は、沖縄の若者たちとともに活動し、長い時間を一緒に過ごし、最初なかなか質問らしい質問をすることもなかったという。それは自分が「何も知らない新参者だと自覚していたので、少なくとも5年は黙って観察すべきだと考えていた」からだ

沖縄の暴走族やヤンキーを調査対象にしたのは、彼らが見せてくれた世界がとても「魅力的」だったからだという。もちろん、沖縄の中卒者、高校中退者には、きびしい現実が待ち受けている。それは本人だけの責任でもなければ、沖縄県だけの責任でもない。沖縄はこれまで、私たちの想像をはるかに超える負担を押し付けられてきた。その象徴が米軍基地である。これらのことも、沖縄の暴走族やヤンキーが直面するシビアな現実と無関係ではないと、打越氏は考えている。だからこそ、沖縄の若者たちの世界を知りたいと打越氏は考えたのである。

打越氏は、沖組という建設業の会社で働く若者たちを主に調査することになる。型枠解体業という重い資材を運んだりする、かなりきつい重労働である。打越氏は、この型枠解体業を自ら体験し、共に彼らと働くことで、参与観察をおこなっている。その中で気付いたことの一つに彼らの「時間間隔の欠如」というものがあった。沖組の現場では、作業時間を気にすることも良いこととはされていなかった。時計を気にしながら働いていると、厳しく叱られたという。「あと30分で昼飯だ」などと言うと、「時計みずに働け。時間の話はするな」ときつく言われた。仕事に慣れた従業員は、作業がつらいとか、なかなか終わりの時間が来ないといったことを意識せずに済むよう、自分の時間間隔をわざと麻痺させていたようだった。しかしそれも、先輩の思いやりの一つであり、なかなか終わらないという時間間隔、こちらの力不足を黙って補ってくれた先輩従業員の思いやり、そうしたものを経て、作業時間も徐々に短く感じられるようになる。こうしたプロセスを経て、若者は一人前になっていくという。

沖縄の下層の若者たちの参与観察を経て、彼らの関係性を象徴する「しーじゃ(先輩)」と「うっとぅ(後輩)」というものに打越氏は注目する。しーじゃとうっとぅの関係性は厳しいものであり、ときには暴力を伴うものであった。下積み時代を経て後輩たちは、しーじゃとなっていき、自分たちがされたことをする側にまわる。しーじゃにとって、地元の無職のうっとぅは、遊びにも仕事にも気軽に誘える都合のよい存在である。地元の暴走族に入るよう、しーじゃに誘われたうっとぅは、バイクの改造や運転技術を身につけていく。うっとぅはしーじゃのオートバイ修理や深夜の運転代行もやらされた。そして沖組などの建設業など資格の不要な肉体労働に従事するのが定番のコースであった。こうして、無職であったり、職業がなかなか定まらない地元のうっとぅは、しーじゃたちによって地元社会の中に囲い込まれていく。

地元のうっとぅたちにとっては、しーじゃたちに面倒をみてもらうことで、地元での人間関係を拡げ、建設業で必要な仕事のスキルを身につける。しかし、それは地元に縛り付けられることでもあった。しーじゃから呼び出しがあればいつでも動けるよう、常にうっとぅは地元周辺で過ごすようになっていく。このように、しーじゃとうっとぅの関係は、沖縄の下層の若者たちの生活と仕事の基盤をなすものであった。それは生活全体を貫き、支配的で、暴力を含む過酷なものだが、彼らの主たる就職先である建設会社にとっても都合のいいものであった。しかし、打越氏が調査をはじめて10年ほどでも、沖組とその従業員を取り巻く環境は大きく変わっていったという。受注規模の縮小が進み、現場では人手が足りているため、中堅からベテランの従業員で十分に仕事がこなせるようになった。そういった状況の中で新人を育てる必要がなくなり、若い従業員が長続きせず、辞めていく。そうした中でうっとぅの供給が減っていき、残ったうっとぅに暴力が集中するというような変化も起きていたのである。



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