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現在という瞬間を本来的に捉える「瞬視(Augenblick)」とは——ハイデガー『存在と時間』を読む

現在が本来的な時間性のうちで保持され、かくてまた本来的な現在である場合、それを瞬視と呼ぶことにしよう。この術語は、能動的な意味で、脱自的なありかたとして理解されなければならない。当の術語によって意味されているのは、現存在が決意したものとして、しかし決意性のうちで保持されたものとして脱出することであって、現存在が脱出するのは、配慮的に気づかわれるさまざまな可能性や事情にあわせて、状況のなかで遭遇されるものにそくしてなのである。瞬視の現象は、〈いま〉からは原則的に解明されることができない。〈いま〉とは、時間内部性としての時間にぞくする時間的現象のことである。〈いま〉は、「そのなかで」或るものが発生し消滅し、あるいは目のまえに存在するものなのである。「瞬視のうちで」はなにものも現前することがありえない。むしろ本来的な対向的現在として瞬視は、手もとにあり目のまえにあるものとして「なんらかの時間のなかで」存在しうるものをはじめて遭遇へともたらすのだ

ハイデガー『存在と時間(四)』熊野純彦訳, 岩波文庫, 2013. p.73

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』より、「存在」と「時間」の関係についての箇所である。『存在と時間』に関する過去記事も参照のこと:「世間話(おしゃべり)の無気味さとは」、「どこにもない、世界全般に対する「不安」」。

ハイデガーはまず「理解する」ということを実存的に捉える。ハイデガーにおける「理解(Verstehen)」とは、個別の対象に関する知識の有無の問題ではなく、実存全般に関わる問題として捉えられている。例えば、目の前にある道具の使い方を理解しているという場合、それは、私たちは自分がそれにどう関わり、それによって何ができるか、どう使うべきか見当がついているということである。ハイデガーは、そうした自己あるいは他の存在者に対する関わり方として「理解」を考えていた

そうした意味での「理解」は、「時間性」と不可分の関係にある。「時間性」に即して、現存在の自己理解が遂行されるとも言える。ハイデガーはまず、現存在が自らの実存可能性の中で「投企(Entwurf)」しながら自己を理解していることの根底に、「将来(Zukunft)」が含意されていると主張する。「投企」とは、自分自身の固有の可能性へと向かって「到来」することであり、「先駆的に決意した」状態で未来の時間から自己を理解することが「本来的な将来(die eigentliche Zukunft)」を含意するということになる。一方、非本来的な未来への時間理解が「予期(Gewärtigen)」である。「予期」とは、非本来的な状態へと頽落した「ひと(das Man)」の配慮的気遣いによって、自分を取り巻く状況がどうなるかおおよそ見当がついてしまう、ということを指す。自己理解において「予期」が全面に出ている間は、「先駆的決意性」によって、自らの存在可能性を"主体的"に把握する必要はない。このとき、現存在は「ひと」のままであり続ける。

この「将来」に関する「先駆―本来的/予期―非本来的」の区分と同様に、「現在」に関しても、「現存在」の自己理解に決意性が伴っているか否かという観点から、「本来的/非本来的」が区分される。冒頭の引用がそのことについて述べている箇所である。「瞬視(Augenblick)」という言葉を、時間の長さが限りなくゼロに近い一瞬を実存的に捉えるという意味で用いている。「能動的な意味で、脱自的なありかた」というのは、現にあるがままの自己自身から離れた地点に自己のイメージを投影し、その自己に積極的に関わっていくということである。限りなくゼロに近い、短い「瞬間」において、現存在は自己から脱出し、自己自身へと向き合う。一方、「いま(Jetzt)」は、そうした実存的な意味を持たない、時計で客観的・中立的に計測できるものとしての、時間内部性としての時間を指す。つまり、現在の軸においては「瞬視―本来的/いま―非本来的」という区分がなされている。

「いま」において何かが発生・消滅し、目の前にあるものが存在するのに対し、「瞬視」においては何も現前しない、というのは少し分かりにくいかもしれない。日常の時間における「いま」においては、客観的に実体化された時間の流れのなかで、諸事物は現存在の実存とは関係なく現れたり、消えたりする。一方、「瞬視」においては単純には事物は現前しない。現存在が決意性のもとに脱自的に時間の一点を捉えることによってはじめて自己あるいは諸事物は目の前へと到来するというわけである。

「瞬間(的体験)」に実存論的な意味を付与する議論は、すでにキルケゴールの『不安の概念』で提起され、ヤスパースの『世界観の心理学』で、その意義が哲学史的に再評価されている。しかし、彼らの議論は、「瞬間」を神の永遠との合一に結び付けるキリスト教神学的な考察の延長にあるもので、信仰や神秘的体験を前提にしないと受け入れがたい。ハイデガーは、瞬間的体験=瞬視を導くものを、神的な永遠から、先駆的決意性を通して見えてくる「将来」へとシフトさせることで、より普遍的な射程を持つ議論にしたと言える。

参考図書:
仲正昌樹『ハイデガー哲学入門 『存在と時間』を読む』講談社現代新書, 講談社. Kindle 版.

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