見出し画像

世界リスク社会と来るべきコスモポリタン国家——ベック『世界リスク社会論』を読む

コスモポリタン的な国家は、国家がナショナリズムに対して冷静であるという原則に基づいています。宗派によって形づくられていた16世紀の内戦が、国家と宗教の分離によるウェストファリア条約で集結したのと類似して、(これはひとつのテーゼなのですが)20世紀と21世紀初頭が国家主義的な世界(市民)戦争に対して、国家とネーションの分離によって応じることができるのかもしれません。無宗教国家がさまざまな宗教の実践を可能にしているのと類似して、コスモポリタン国家は、国境を超える民族的、国民的、宗教的アイデンティティの共存を、立憲的寛容の原則によって保障しなくてはいけないでしょう。
この意味で政治的ヨーロッパの実験は、コスモポリタン的国家形成の実験として新たに考えられるし、また考えなくてはいけないでしょう。きちんと自己を認識した諸国家から成るコスモポリタン的なヨーロッパは、テロリズムに対する世界中の人々の戦いから政治的な力をくみ出し、全く現実的なユートピアでありえるでしょうし、またそうなるでしょう。

ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論——テロ、戦争、自然破壊』ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2010. p.58-59.

ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck、1944 - 2015)は、ドイツの社会学者。ポンメルンのシュトルプ(現在のポーランド領スウプスク)生まれ。ミュンヘン大学卒業。ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学、オットー・フリードリヒ大学バンベルクを経て、1992年からルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)およびロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの社会学教授を務めた。チェルノブイリの原発事故直後に出版された『リスク社会(邦訳では『危険社会』)』(1986年)はベストセラーとなった。

本書『世界リスク社会論』は、ベックの講演記録にもとづく著書であり、引用した「言葉が失われるとき——テロとの戦争において」という講演は、2001年のアメリカ同時多発テロの直後に行われたものである。

ベックの学問上の決定的な転換点は1986年の著書『危険社会(原題:Riskogesellschaft)』である。この著作によって社会学者ベックの名声は一気に高まった。その時代背景として特筆すべきは1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故がある。その他、冷戦の只中にあった当時の政治的背景や、70年代初期から始まったフェミニズム運動の昂揚などもあり、ベックの「リスク社会論」の理論は精緻化されていった。ベックはリスク社会論と同時に、個人化論を基礎としながら、ジェンダー論、家族論、現代社会における男女の関係性を掘り下げて考察していく。同時にベックを有名にしたのは、近代の本質に関する考察を発展させ、近代に関する理論を展開していったことが挙げられる。彼はニクラス・ルーマンのReflexion概念に依拠しながら「近代社会の近代化」「反省的(再帰的)近代化」というテーゼを提起している。

1990年代後半からベックは、リスク社会論、個人化論、反省的近代化論をふまえ、本格的にグローバル化論に取り組むようになった。その成果が本書で展開されている「世界リスク社会論」である。そこでは加速度的な社会の流動化によって労働や雇用といった分析概念の自明性が解体したことを指摘し、同時多発テロなど極めてアクチュアルな問題を世界リスク社会論の視角から分析している。

ベックによれば、リスク社会とは、産業社会が環境問題、原発事故、遺伝子工学などに見られるように新たな時代、別の段階に入り、それまでとは質的にまったく異なった性格を持つようになった社会のことである。異なった性格とは、環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的に無関係に人々にふりかかり、逆説的にある種の平等性、普遍性を持っていること、そしてリスクの持つ普遍性が、国境を超え、世界的規模での共同性、いわゆる「世界社会」を生み出していることが挙げられる。このリスクの世界的普遍性は、2020年以降起きたパンデミックによる世界的影響もまさにその実例と言えるだろう。

リスク社会論と並んでベック現代社会論にとって重要なのが、個人化(individualisierung)論である。個人化は近代化と密接に関わっている。個人化とは、一般的には近代化によって、身分や地域の拘束から諸個人が解き放たれること、いわゆる近代社会の出現による個人の析出の過程である。ベックは、この個人化を3つの次元に分ける。それは伝統的拘束からの解放、伝統が持っていた確実性の喪失(行為のよりどころとなる規範が失われること)、そして新しい社会統合(ばらばらになった諸個人が新たに労働市場や社会福祉制度に組み込まれ統制されること)である。

ベックは近代化が進めば進むほど、この個人化も進展していくと考える。ジェンダー論的には専業主婦という存在が作り出されこともその一例である。これは拘束からの解放と同時に、性別による新たな身分固定化を生み出したことを意味する。まさに近代と「近代的な反近代」が合流しているのである。近代化が進むことで、家族の解体も進み、性別に関係なく、女性の個人化も進むことで、社会全体としての個人化が進んでいく。

ベックはリスク社会がさらに進み、グローバル化とリスクの普遍性が合流することで「世界リスク社会」を生み出したと、本書『世界リスク社会論』で主張する。世界リスク社会の本質は、本来予見可能であり制御可能であったはずのリスクが、そうではなくなってしまい、世界的な規模で広がり、収拾がつかなくなってしまい、グローバルな危険になってしまうことにある。そして、危険の次元は、環境破壊、金融危機、テロのネットワークなどに及んでいく。しかし、危険のグローバル性は、内政と外交との区分を流動化し、逆にグローバルな同盟を生み出す。これが、世界リスク社会の自己再帰性である。国家を超えたテロのネットワークは、「暴力のNGO」のように、戦争がもはや国家間の戦争ではなく、戦争の個人化をもたらす。また、アメリカ同時多発テロは、市場経済の勝利とそれによるグローバル化の問題解決を単純素朴に信じる新自由主義が誤りであることを証明した、とベックは述べる。

グローバル化に反対するテロリストの抵抗は、彼らの意図とはまさに反対に、政府と国家の新たなグローバル化をもたらす。このテロによって従来の国民国家、主権と自己決定権との等置という概念も大幅に見直さなくてはいけない。国家を超えた国家間協力には、治安と秩序を重視し自由と民主主義を軽視する監視国家と、内側にも外側にも開放的で、コスモポリタン的である世界開放国家の二つの理念型があるが、テロに対する闘いにおいては、その原因に対しても解決を目指すという意味で、コスモポリタン国家(世界開放国家)が促進されるべきである、というのが本書におけるベックの主張である。

ベックの世界リスク社会論とは、要約するならば、産業社会にあっては制御可能であり、保障可能であったリスクが、制御不能・保障不能な危険なものに変質したこと、それがもはや国民国家の枠内にとどまらず、世界的規模、世界社会で広がり、その結果としてリスクを受けるのが世界市民になること。それに対する対抗運動として、下からの世界市民による運動、下からのグローバル化が進むこと(これを「サブ政治」とベックは呼ぶ)、その結果として、国家とネーションの分離が進み、「コスモポリタン国家」とも呼ぶべきものの出現が期待されること、ということである。


いいなと思ったら応援しよう!